2018年 04月 30日
4月30日(月曜)、晴れのち曇り。 「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。今回のプランは次の通り。 JR高崎線/鴻巣駅 〜黒岩横穴墓群 〜吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加 〜岩室観音堂 〜吉見百穴 ~吉見町埋蔵文化財センター 〜大谷瓦窯跡 〜秋葉神社(多分、古墳) 〜比丘尼山横穴墓群 〜雷電山古墳(大雷神社) 〜東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に) 〜東武東上線/東松山駅 黒岩横穴墓群、吉見観音(岩殿山安楽寺)、松山城跡(説明板のみ)、岩室観音堂のコースを辿り、吉見百穴に至る。 吉見百穴。 前話では、説明板の「吉見百穴」、「横穴に葬られた人々」、「横穴を掘った人々」、「横穴を掘った工具」、「穴の並び方、棺座の工夫、玄室の形、横穴の構造」、「現世と死後の世界」、「横穴の構造」などについて縷々綴った。 それらの説明を踏まえ、西斜面の見学用石段を上りながら、横穴墓を間近に検分した。 石段をどんどん上って行く。 足場のよいところにある横穴墓の内部を覗いてみる。 説明板のある横穴墓で立ち止まり、検分する。 説明板に目を通す。 ---------------------------------------- 玄室の形 玄室は横穴の中でも最も重要な部分です。 ここにつくられた一段高いベッドのような床は遺体を安置する所で、棺座と呼ばれています。 棺座は片側正面に一つだけのもの、西側・片側と正面など複数になっているもの、或いは、無いものなど、「百穴」の玄室には7種類の配置があります。 横穴が個人の墓ではなく、家族墓であって、しばしば、追葬が行われたからでしょう。 棺座の大きさは一人の棺をのせるのではなく、二人分、または、もっとのせるためにつくられたものです。 玄室の形はさまざまです。 最も多い形は方形ですが、正方形に近いもの、長方形、羽子板形、三味線胴形などいろいろあります。 丸い形もありますが、吉見百穴の横穴群の中では異例です。 ---------------------------------------- 玄室の図。 第一形式(最も多い形の長方形)から第八形式(異例の丸い形)までが図示されている。 屈み込んで、横穴墓内を検分する。 左側の棺座をアップで。 右側をアップで。 右側には棺座が設けられていたような跡は見受けられない。 この横穴墓は棺座が片側ひとつだけのものと思われる。 続いて、新たな説明板のある横穴墓で立ち止まる。 説明板に目を通す。 ----------------------------------------- 棺座の工夫 玄室の棺座から中央の通路にかけて、また、通路から羨道・前庭にかけて、溝が掘ってある例が幾つか見られます。 ほとんどの横穴が玄室から前庭にかけて、傾斜をつけて掘ってあります。 これらは排水のための工夫でしょう。 玄室に安置された遺体がいつまでも腐らないで、とこしえに現世の生活が続けられるように願った古墳時代の人々の死者への祈りがこめられているのであろうか。 ----------------------------------------- こちらの横穴墓はさきほどのものとは異なり、外から見ても明らかに両脇に棺座が設けられていることが見て取れる。 左側の棺座。 右側の棺座。 4月半ば、九州・遠賀川流域古墳のひとつ、水町遺跡群(福岡県直方市)でベンキョーしたこと、それは人骨は水に溶けてしまうが、遺跡で発見される人骨は、葬られた場所の水はけがよく、運よく、水に溶けなかったものとのことであった。 「棺座の工夫」の説明板と水町遺跡群でベンキョーしたことが相まって、古墳時代の人々の排水に対する知恵が見て取れる。 同じく、九州・遠賀川流域古墳のひとつ、王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)を見学した際、実際の石室では棺座の存在は視認出来なかったが、隣接の王塚装飾古墳館で展示されていたレプリカでは棺座があることをしっかりと視認出来たことを言い添えておきたい。 斜面の頂上部に至る。 見晴台に立つ武衛さんと南国守さん。 見晴らし台からの風景と図。 手前には、市野川の流れ。 その向こうに平地が広がる。 そして、彼方に、南西(左側)に富士山...西(中央)に武甲山...北(右端)に浅間山。 こうして見晴らし台からの風景を眺めていると、横穴墓を掘る場所をここにしようと決心した古墳時代の人々の気持ちがよく分かる。 即ち、生前、集落で生活しながら眺めていた山河を死後も眺めていたいと考えたのであろうと想像するのである。 地形の面から考えると、今朝、訪ねた黒岩横穴墓群は、吉見百穴の大きく開けた平地と彼方の山々が眺められるロケーションとは大きくことなり、八丁湖の奥にある谷間の斜面に位置していた。 八丁湖は江戸時代に造成された灌漑用の人口湖沼とのことである。 となると、ここからは想像であるが、谷間は、今は公園のようになっているが、昔は川が流れていたのではないか、そして、八丁湖の辺りは平地か湿地であったのではないかと思われる。 であれば、横穴墓が掘られた谷間の斜面から目と鼻の先は開けた平地あるいは湿地となり、吉見百穴とは少し違うが、黒岩横穴墓群も見通しのよいところに位置していたといえなくもない。 吉見百穴は、そのロケーションから、南西に富士山を臨む。 西には武甲山を臨む。 武甲山は、のちのことではあるが、秩父地方の総社である秩父神社の神奈備(かむなび)の山となり、また、日本武尊が自ら甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したとの伝説があり、それが山の名の由来ともいわれている。 そして、北には浅間山も見えるという。 まことに贅沢なロケーションである。 見晴らし台から、たった今、上って来た石段と横穴墓群を眺める。 地面にチョウがとまっている。 早速、虫撮り。 翅が、少し、欠けている。 色合い、眼状紋の数(7個)からして、コジャノメのようだ。 北斜面側へ降りる石段を下る。 キケン! 黒岩横穴墓群と同様、ここでも毒蛇注意の喚起あり。 今朝の岩横穴墓群では、武衛さんがヤマカガシを見付けたが、今度は小生がトカゲを見付けた。 ヤマカガシに続いて、爬虫類撮り。 トカゲの名には疎い。 子供の頃から見慣れて来た、ニホントカゲやカナヘビくらいしか思い浮かばない。 いや、西表島で、キノボリトカゲを見たことがあったなあ...(自慢げ)。 このトカゲはカナヘビのようだ。 末尾に「出土品資料提供 大澤家」とあるが、リーフレットや説明板に書かれていた「明治20年、坪井正五郎博士が帝国大学院生のとき、発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器類が出土した」とあった、そのときの出土品であろうか。 そんなことでよいのだろうかと思うも、ブログ上でそんなことを書かなければ、立派な資料写真とだけ見えることだろう。 今一度、吉見百穴を眺める。 吉見百穴を堪能した。 午前中に訪ねた黒岩横穴墓群、4月半ばに訪ねた水町遺跡群(福岡県直方市、横穴墓群)などと併せての<考察>も叶った。 次は、同じ敷地内にある吉見町埋蔵文化財センターへ。 フォト:2018年4月30日 #
by kazusanokami-2nd
| 2018-04-30 23:36
| 武蔵国史跡めぐり
2018年 04月 30日
4月30日(月曜)、晴れのち曇り。 「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。今回のプランは次の通り。 JR高崎線/鴻巣駅 〜黒岩横穴墓群 〜吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加 〜岩室観音堂 〜吉見百穴 ~吉見町埋蔵文化財センター 〜大谷瓦窯跡 〜秋葉神社(多分、古墳) 〜比丘尼山横穴墓群 〜雷電山古墳(大雷神社) 〜東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に) 〜東武東上線/東松山駅 数年前から、史跡めぐりの相棒、武衛さんとあちらこちらの古墳を探訪して来た。 若い頃、東上線沿線の和光市に住んでいたことがあった。 ということで、沿線の森林公園や長瀞には行ったことがあるが、吉見百穴は気にはなりつつも、訪ねることはないままに、月日は過ぎた。 だが、数十年ののち、古墳めぐりをする中で、吉見百穴が候補に挙がることは当然の成り行きであった。 吉見百穴の事前調べをしている中で、黒岩横穴墓群や比丘尼山横穴墓群も知ることとなり、今回の古墳めぐりに織り込んだのであった。 今回の古墳めぐりに先立ち、4月半ば、九州装飾古墳めぐりと銘打ち、遠賀川沿いの古墳をめぐった。 その中に、水町遺跡群があった。 これは、吉見百穴や黒岩横穴墓群、比丘尼山横穴墓群と同様に、横穴墓群であった。 横穴墓群を探訪したのはこの水町遺跡群が初めてであった。 この機会に、九州と関東の横穴墓の共通点と相違点を是非見てみたいと思うのであった。 黒岩横穴墓群、吉見観音(岩殿山安楽寺)、松山城跡(説明板のみ)、岩室観音堂のコースを辿り、吉見百穴に至る。 吉見百穴。 説明板に目を通す。 ------------------------------------------ 吉見百穴 「 百穴 」 の名が文献に見られるのは今から約200年前で、江戸時代の中頃には 「 百穴 」 の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。 「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。 明治20年、坪井正五郎博士による大発掘が行われ、その結果、人骨・玉類・金属器・土器類が掘り出され、横穴の性格を土蜘蛛人(コロポックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました。 しかし、大正末期に入って、考古学の発展により、各地で横穴の発見、発掘の結果、その 出土品、横穴の構造から、横穴が古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として掘られたものであることが明らかにされ、「住居説」はくつがえされることになりました。 そして、大正12年、「吉見百穴 」 はわが国の代表的な横穴墓群として史跡に指定されました。 戦時中、横穴墓群のある岩山には地下工場建設が行われ、数十基の横穴がこわされましたが、 戦後、吉見百穴保存会の結成により、積極的な保存、管理がなされ、昭和38年、吉見町に移管され、「吉見百穴」は、再び、多くの人々に愛され、親しまれる史跡となりました。 吉見町 ------------------------------------------ この説明板に目を通したときは、先ほど、観覧券販売所で貰ったリーフレットの内容とほぼ同じと思ったが、再度、読み返してみると、ところどころで相違点があり、細かいことが気になるA型人間として、2点、相違点を挙げておきたい。 1)相違点その1: 説明板/「明治20年、坪井正五郎博士による大発掘が行われ...」 リーフレット/「明治20年、坪井正五郎氏(1863-1913 当時東京大学院生)によって大発掘が行われ」 坪井正五郎氏は、まだ、博士ではなく、大学院生であったから、これはリーフレットの記述が正しい。 但し、「東京大学院生」ではなく、「東京帝国大学院生」でもなく、「帝国大学院生」が正しい。 東京大学の沿革を紐解くと、明治19年(1886年)、「帝国大学」と改称、明治30年(1897年)、京都帝国大学が設置されたことに伴い、東京帝国大学に改称したという歴史をたどっているからである。 もし、説明板のように書きたいなら「明治20年、坪井正五郎博士がまだ帝国大学の大学院生であった頃に」と書くべきであろう。 せっかくなので、ここで、坪井正五郎博士について簡単に触れておきたい。 坪井正五郎(1863-1913) 1886年(明治19年)帝国大学理科大学動物学科卒、帝国大学大学院に進学、人類学を専攻。 1888年(明治21年)帝国大学理科大学助手。 1892年(明治25年)帝国大学理科大学教授。 1899年(明治32年)理学博士。 日本の人類学の先駆者。 日本石器時代人=コロボックル説を唱えたことで有名。 帝国大学教授として、人類学教室を主宰し、民俗学、考古学までを含むイギリス流の幅広い人類学を提唱し、柳田国男と南方熊楠を結びつけたりもした。 坪井正五郎博士の名は、旧村川別荘(千葉県我孫子市)で見たことがある。 旧村川別荘は、村川堅固(東京帝国大学教授、西洋古代史)が大正6年(1917年)に立てた別荘で、昭和21年(1946年)に息子の村川堅太郎(東京大学教授、西洋古代史)に受け継がれ、現在は我孫子市の市指定文化財となっている建物である。 この旧村川別荘に「小さな考古学者:村川堅太郎・正二」と題したパネルが展示されている。 その内容のあらましは次の通りである。 大正11年(1922年)、村川堅太郎・正二兄弟は、別荘の建設現場を訪れた際、小学生であった正二が「かいづか(貝塚)と言うところに行って千年いじゃうも前のやきものをひろった」と作文に書き残している。 彼らが土器を拾った貝塚とは、我孫子駅南東側に嘗て存在した「大光寺貝塚」と考えられる。 大光寺貝塚は、日本における人類学、考古学、民族学の始祖とされる東京帝国大学教授 坪井正五郎が明治30年(1897年)に刊行した『日本石器時代人民遺物発見地名表』に「我孫子町大字我孫子大光寺貝塚」と記載され、同32年に坪井が現地視察し、「黒土一尺程下には貝殻がキッシリ詰まっている」ことを確認している(『東京人類学会雑誌』14)。 ということで、ここで坪井正五郎博士の名を知り、吉見百穴で再び彼の名を知るおととなったのである。。 なお、西洋史の山川堅太郎教授は、我々の世代では、高校時代の山川出版の教科書「詳説世界史B」で馴染みのある名である。 2)相違点その2: リーフレット「坪井氏はこの横穴を 土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたものであると発表しました」 説明板/「坪井正五郎博士による大発掘が行われ、...横穴の性格を土蜘蛛人(コロポックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました」 リーフレットは「土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもの」とあり、坪井氏は住居説でとどまっているような記述となっている。 一方、説明板では「土蜘蛛人(コロポックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました」とあり、坪井氏は住居説を唱えたが、後に住居が墓穴に転用されたとの説を唱えたようにも読める。 さて、いずれが正しいのであろうか? 3)相違点その3(相当に細かいことだが): リーフレット/「昭和36年より当時の吉見村が管理者となって引き継がれ」 説明板/「昭和38年、吉見町に移管され」 これもリーフレットの書き方が正しいのであろう。 何故なら、町制施行により吉見村が吉見町になったのは昭和47年であり、「昭和36年より当時の吉見村が」と、「当時の吉見村」と念押しするが如くにより書かれていることが正しさの証しであろう。 坪井正五郎博士が唱えたコロボックル説を少しベンキョーしてみた。 坪井正五郎博士は、横穴の性格を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居であるとし、のちに墓穴として利用されたものであると考えたのは彼の唱えるコロボックル説の延長線上にある考えであるから、後年、そうした説は覆されることになったが、彼が調査した当時、一研究者としてそうした説を唱えたのは筋の通ったことだと思う。 話しは反れるが、「土蜘蛛人(コロボックル人)」の「土蜘蛛」で思い出すのは、茨城県の県名の由来である。 数年前、霞ヶ浦をポタリングしたのち、JR高浜駅から石岡市街地を目指し、県道118号線を走っていたところ、「茨城」なる地名のところに差し掛かった。 そこに「『茨城』の地名発祥の地」なる説明板があった。 ------------------------------ 「茨城」の地名発祥の地 茨城県の「茨城」という地名の発祥の地は、石岡市茨城付近といわれる。 その由来について『常陸国風土記』の茨城郡(いばらきのこおり)の条(くだり)には次のように記されている。 昔、このあたりには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが山の斜面や崖などに穴を掘って住んでいた。 里人のすきをうかがっては、多くの仲間をひきいて、食物や着物を奪ったりすることから、付近の里人は大変こまっていた。 そこで、黒坂命(くろさかのみこと)という人が土ぐも退治に乗り出し、土ぐもが穴から出ているときを見計らって野茨(のいばら)で穴の入口をふさいで城(き。柵)を作ってしまった。 そして、山野に出ていた土ぐもを攻撃したところ、土ぐもたちは、いつものように穴にもぐり込もうとして、茨に突き当たったり、引っ掛ったりして傷を負い、山の佐伯、野の佐伯も退治されてしまった。 茨で城(柵)を作って土ぐもを退治したことから、このあたりを茨城と呼ぶようになっとというのである。 (筆者註:以下、『常陸国風土記』の漢文体「茨城郡。...古老曰。...」が引用されているが、それは割愛) 平成20年3月 石岡市教育委員会 -------------------------------- この説明板を初めて読んだとき、「このあたりには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが山の斜面や崖などに穴を掘って住んでいた」は、ただ、そういうことなんだと思った程度であったが、吉見百穴を見た今、土ぐもが山の斜面や崖などに住んでいた穴を具体的にイメージすることが出来た。 因みに、このとき、文中の「山の佐伯、野の佐伯」という言葉が、「佐伯」という名字もあることでもあり、少々調べてみたところ、「ヤマトが東征したときに捕虜とした蝦夷・毛人を西日本に移住させ、編成した組織を佐伯部(さえきべ)といい、佐伯部の組織名の由来には諸説あるが、ヤマト王権に反抗した者ということから『さえぎる者』と云われ、それが転じて『さえき』になったとの説もある」とのことで、土ぐもが蝦夷・毛人を指していることは明らかである。 横穴に葬られた人々。 ------------------------------------------ 横穴に葬られた人々 古墳時代の村人達の中で、横穴を作ってここに葬られた人は、一部の人に限られていたのでしょう。 横穴を掘るには人手が必要ですし、費用がかかることですので、わずかの土地を耕してかろうじて毎日を暮らしていた多くの農民は、とうてい横穴を造る力は持っていなかったに違いありません。 村人の中で数人の働き手を十数日も横穴を掘る労働に使役させることのできた一部の人々が自ら奥津城として横穴をつくらせ、その家族とともにこの中に葬られたものでしょう。 横穴には棺台が二つも、三つもあることから一人の墓でなく、有力者の家族を埋葬する家族の墓でもあったと考えられます。 ------------------------------------------ 階級社会の現れ。 それがいいのか、悪いのか。 束ねる人物が必要ではあることは事実なのだが...。 そうした人物が権力を示すための墓、それを今、趣味としてめぐっていることに少し引っ掛かる気持ちもなきにしもあらず、である。 横穴を掘った人々。 横穴を掘った人々 横穴はどんな人々が掘ったのであろう。 岩山の上から西の方を眺めると市野川の広い沖積地をへだてた対岸に平坦な柏崎の台地が長く続いています。 この台地の上から、最近、古墳時代後期の住居跡が発見されました。 また、西側にひらけた自然堤防からも6、7世紀の住居跡が沢山みつかっています。 いずれも「吉見百穴」を造った人々と関係のある住居跡と推定されます。 おそらく対岸の台地上や、市野川の自然堤防の上には古墳時代の後期に大小いくつかの村がつくられ、活発な人々の生活がいとなまれていたに違いありません。 ------------------------------------------ この周辺の地形、そして、集落と人々が生活している光景が目に浮かぶ。 横穴を掘った工具。 横穴を掘った工具 各々の横穴に入って、玄室の天井や側壁の片隅を丹念に調べてみると、鋭い削り跡や幅広な割り跡を容易に探し出すことが出来ます。 これが横穴を掘った工具の跡です。 鋭い削り跡は、多分、のみ類でしょう。 幅広な削り跡は手本(※)でしょうが、中には釘のように細い工具を用いて整形した痕がみうけられます。 横穴が掘られて場所は凝灰岩質の比較的柔らかい岩山です。 このように粗末な工具では一つの横穴を掘るのにも大変な労力が必要だったことでしょう。 おそらく、数人の者がこつこつと掘り続けて、完成するまでに十数日を要したのではないでしょうか。 --------------------------------------------- ※原文では「手本」となっているが、これは「手掘り」の誤りか? 穴の並び方 棺座の工夫 玄室の形 横穴の構造。 穴の並び方 棺座の工夫 玄室の形 横穴の構造 斜面に並ぶ穴は、西側から東側へと次第にその並び方が整っています。 特に東側にある穴は平行線上に正しく配置されて整然とした感じがあります。 穴の掘り方の技術や考え方が進んでいた証拠と考えられます。 上位の穴や下の穴では下から次第に穴が大きくなり、また、下の方より上の方が穴と穴の間隔が広くてゆとりが出て来ています。 中位の穴は2、3の大きく立派な穴が取り巻いて、その周辺に小さな穴がいくつか掘られ、ひとつの小グループをつくっているということがわかります。 この穴の並び方や、また、上中下に位置の違いは穴の掘られた年代の違いを示すものか、また、葬られた人の身分や富とつながりがあるのか考えながら観察しましょう。 --------------------------------------- 「斜面に並ぶ穴は、西側から東側へと次第にその並び方が整っています。特に東側にある穴は...」とある。 吉見百穴は、ほぼ西に向かった斜面にある。 本ブログでは分かり易くするため、西に向いた大きな斜面を西斜面、北側に少し回り込んだ小さな斜面を北斜面、東側に大きく回り込んだ少し広めの斜面と南斜面と称することにする。 南斜面に掘られた横穴墓群を眺める。 穴の配列、掘り方の技術など、いわれて見れば、説明板に書かれているようなことに見えなくもない。 北斜面や西斜面面に比べると、南斜面はかなり荒れている。 荒れて危険になったせいか、上方へ向かう見学用の石段は閉鎖されている。 支柱で養生した横穴墓。 木の根っこ。 木は切っても、根は掘り起こされていない。 根を掘り起こしていないのは、横穴の崩壊のみならず斜面全体の崩壊を避けるためであろう。 4月半ば、九州・遠賀川流域古墳めぐりで、竹原古墳(福岡県宮若市)を訪ねたとき、学芸員さんからそうした話を聞いたことでもあり、ここ、吉見百穴でもそうであろうと思うのであった。 南斜面の最も奥(東側)の部分。 のちほど、西斜面の見学用石段を上りながら、西斜面の横穴群を見学するので、この南斜面の横穴と西斜面の横穴を見比べてみたい。 現世と死後の世界。 ------------------------------------------- 現世と死後の世界 古墳時代の人々は人が死ぬことは決してなくなってしまうことだとは考えていませんでした。 現世を旅立って遠いところへゆくのだ、そして、そこで今までのような生活を続けるのだと考えています。 この考え方が横穴の構造に表れて、玄室、つまり、現世と同じような生活をしているところとしての意味を持っているのです。 したがって、玄室の天井は屋根の形を模してつくられています。 また、「なきがら」を葬るとき、その人が生前に使っていたものなど、死体にそえて埋葬した副葬品が多く発見されています。 副葬品として、金環・勾玉・管玉・埴輪(飾馬)・土器などが多く、飾馬(かざりうま)はあの世で遠い旅をしたり、乗りまわすのに、土器はあの世での日常生活の必要な食器として考えられたからでしょう。 ------------------------------------------- 横穴天井の形。 説明文に「玄室の天井は屋根の形を模してつくられている」とあり、図では6形式の横穴天井が図示されている。 3月末、明日香史跡めぐりをした際、キトラ古墳と高松塚古墳の石室の天井の形が異なっていることを知った。 キトラ古墳は台形、高松塚古墳は平板であった。 埴輪には家形埴輪がある。 古墳に家形埴輪が置かれた意味については、葬られた人の魂が宿る場所とする説や、 多くの家形埴輪を整然と配列した例があることから、 生前に暮らした屋敷を再現したとする説などがある。 玄室の天井の形や家型埴輪は古墳時代の人々の死生観を表していることがよく理解出来る。 南斜面下からの横穴墓群の見学を終え、西斜面へと移動。 横穴の構造。 横穴の構造 横穴は玄室、羨道、前庭の三つの部分からなっています。 玄室は死者を埋葬した所で、ここは、普通、遺体を安置した棺座がつくられています。 羨道は前庭から玄室に通ずる通路であり、前庭は羨道の外につくられた広場ですが、ここでは おそらく死者を葬う祭りが行われたのでしょう。 遺体を玄室内に安置した後、横穴は羨道の外側を封鎖石(扉石)を立てかけて閉塞しました。
封鎖石には多くは緑泥片岩の一枚岩を使っていますが、まれに凝灰岩の切石を積みかさねた例もあり、一定していません。 封鎖石は粘土を用いて密封され、開けることは出来なかったが、追葬の際は粘土を除いて取り外されました。 ------------------------------------------ 上/平面図、下/立面図。 横穴墓は、小さな面積であっても、前方後円墳の横穴式石室と同様に、前庭、羨道、玄室が設けられている。 横穴墓の内部を検分し、この目でその構造を確かめてみたい。 次は、西斜面の石段を上りながら、横穴墓を見学していくことに。 フォト:2018年4月30日 (つづく) #
by kazusanokami-2nd
| 2018-04-30 23:35
| 武蔵国史跡めぐり
2018年 04月 30日
4月30日(月曜)、晴れのち曇り。 「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。今回のプランは次の通り。 JR高崎線/鴻巣駅 ~黒岩横穴墓群 ~吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加 ~岩室観音堂 ~吉見百穴 ~吉見町埋蔵文化財センター ~大谷瓦窯跡 ~秋葉神社(多分、古墳) ~比丘尼山横穴墓群 ~雷電山古墳(大雷神社) ~東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に) ~東武東上線/東松山駅 黒岩横穴墓群、吉見観音(岩殿山安楽寺)、松山城跡(説明板のみ)、岩室観音堂のコースを辿り、吉見百穴に至る。 吉見百穴。 観覧券と共に貰ったリーフレットに目を通す。 ------------------------------------- 国指定史跡 吉見百穴【よしみひゃくあな】 YOSHIMI HYAKUANA 「百穴」の名が文献に見られるのは、今から約200年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。 吉見百穴が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。 明治20年、坪井正五郎氏(1863-1913 当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器類が出土しました。 坪井氏はこの横穴を 土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたものであると発表しました。 しかし、大正時代になると、考古学の発達によって各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造からこの横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ、 「 住居説 」 はくつがえされることとなりました。 そして、大正12年に「 吉見百穴 」 は我が国の代表的な横穴群として、国の史跡に指定されました。 戦時中、横穴群のある岩山に地下軍需工場の建設が行われ、数十基の横穴がこわされてしましましたが、戦後、吉見百穴保存会が結成されて、積極的な保存管理が行われ、昭和36年より当時の吉見村が管理者となって引き継がれ、今では「 吉見百穴 」 は多くの人々に愛され、親しまれる史跡となっております。 また、最低部の二つの横穴に、かすかな緑色の光を発しているヒカリゴケがあります。 このコケは、山地に多く、平地にあるのは植物分布上きわめて貴重とされ、国指定天然記念物となっています。 ------------------------------------- 入場する前に、観覧券販売所のおばちゃんと暫し会話。 「よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ、地元の人はどのように呼んでいますか?」。 「よしみひゃくあな、です」。 事前の調べで、「ひゃくあな」と書かれたものや、「ひゃっけつ」と書かれたものがあったので、念のため、確認したのであった。 「入り口にうどんの幟旗が立っていますが、中で食事が出来るのですか?向かいの店は、今日は休業のようだし」。 「中に、2軒、店があります。うどんとそばが食べられますよ」。 時計を見ると、12時半。 昼餉を摂ってから、ゆるりと吉見百穴を見学することにした。 観覧料、金300円也を支払い、入場し、先ず、店に入った。 品書きを見る。 肉汁うどんなるものがある。 これは多分、つけ汁で食する、いわゆる、武蔵野うどんのはず。 店におばちゃんに確認する。 果たして、そうであった。 肉汁うどんを三つ、注文する。 武蔵野うどんは、多摩湖近くで一度、川越で一度、食したことがある。 多摩湖近くで食したとき、普通盛りと大盛りがあり、「大盛りは何玉ですか?」と問うたところ、「〇〇〇グラムです」という返答があり、戸惑ったことがあった。 うどんを頂戴しながら、おばちゃんにインタビュー。 「向かいの店はゴールデンウィークなのに、休んでますね」。 「ちょっと、不幸があったので、今日は特別に休んでいるのです」。 「ここは入場料を払わねば入れませんが、うどんだけ食べたいときは?」。 「観覧券販売窓口で、食事だけと言っていただければ、入場料はいりませんよ」。 うどんを頂戴しながら、お茶も何度も頂戴する。 ポタリングのときは給水が大事であるから。 今度は店のおばちゃんからのインタビューを受ける。 「お客さんはどちらから来られましたか?」。 これはよく受ける質問である。 伊藤礼翁が彼の著書『こぐこぐ自転車』で述べている通り、この種の質問に対する答え方はなかなか難しいのである。 何故なら、自分の住んでいるところを言うのか、それとも自転車で出発したところ(今回ならJR鴻巣駅)を言うのかである。 自分の住んでいるところを言うと、そこから走って来たと誤解を受ける恐れがある。 輪行で、何処何処の駅から来たと答えようとすると、自転車は折り畳めば、乗り物に乗せてくれるんですよ、そうすることを輪行というんですよ、とか、説明がまどろっこしくなるのである。 まどろっこしいことではあるが、自分の住んでいるところと、スタートした駅と、輪行のこと、すべてを話した方が分かり易く、そうするのが常であり、今回もそうした。 すると、今度は「これから何処へ行くのですか?」との質問となる。 何処そこを回って、東松山駅から電車で帰るんです、という答えとなる。 このときは、最早、輪行とは何ぞやの説明はしなくてよいのである。 前置きが長くなった。 いよいよ、吉見百穴の見学である。 軍需工場跡、ヒカリゴケ、そして、そもそもの目的である横穴墓群、そして、最後に吉見町埋蔵文化財センターの順に見学することにした。 吉見百穴。 奥に進む。 ひんやりとした冷気が漂っている。 縦横にトンネルが掘られている。 鉄格子の向こうは立ち入り禁止。 トンネルはまだまだ奥に続いているようである。 トンネルの奥を見る親子さん。 子供さんの手元のボタンを押すと、洞内に明かりが点る仕組みとなっている。 この子供さんは、このトンネルを見て、ひとつ、不幸な歴史があったことを学んだであろう。 もちろん、古希2名、67歳1名のGG3人組も改めて歴史を学んだ。 左へ進む。 左へ折れ、表に出る。 次は、ヒカリゴケ。 天然記念物 ひかりごけ 2,3の横穴の中には、こけが自生しています。 このこけは、太陽の光に映えて黄金色に輝く「光こけ」と呼ばれ、ほの暗い洞窟内や森林内の湿地に生える珍しい植物で、昭和3年、天然記念物に指定されました。 このこけは、ふつう、原糸体とともに生えて淡緑色か淡色かになっています。 この原糸体はレンズ状の細胞がつながってできているため、光線を屈折反射し、黄金色にひかります。 ---------------------------------------- 「天然記念物 ひかりごけ」の説明板に添えられた図。 「大正5年 岸 勝弥氏 発見」とある。 緑色に金色で描かれたコケの図、この図を描いた人の苦労が偲ばれる。 「雄」、「雌」が図示されている。 コケの雌雄について、これだけではよくわからないので、調べてみた。 「コケ植物における雄雌性は複雑になっており、大別すると『雄雌異株』と『雄雌同株』にわけることができる」とあり。 やはり、複雑なのである。 ヒカリゴケを覘き込む、武衛さん。 続いて、小生も覘き込む。 「見えましたか?」。 「よく、見えましたよ」。 「わたしは見えへんかったです。生物学にも造詣の深い武衛さんやから、よー、見えたんやと思います」。 見えたことにして、観覧券右上のヒカリゴケ写真をトリミングして。 このトリミング図で嬉しいことを発見した。 ヒカリゴケもさることながら、両脇に<棺座>と思われるものがあることに気付いたのであった。 数年前、内房をポタリングしたとき、JR竹岡駅近くで「ヒカリゴケ」の看板を見たような記憶がある(久里浜に渡る東京湾フェリーの時刻の都合もあり、パスしたが)。 このブログを綴るに当たって、調べてみたところ、ヒカリゴケではなく、「天然記念物 竹岡のヒカリモ」であった。 数年前、映画『ひかりごけ』(原作/武田泰淳、監督/熊井啓、1992年)をTV放映で観たことを思い出した。 ストーリーは日本陸軍の徴用船が真冬の知床岬で難破し...というもので、ストーリーの詳細は割愛するが、題材が題材だけに、不気味な印象の残る作品であった。 戦時中の軍需工場跡、そして、戦時中に起こった実話を題材にした映画『ひかりごけ』、話が暗くなりそうなので、<明るい>話をもうひとつ。 ニュージーランドを旅したとき、光る洞窟なるものを見学したことがある。 ニュージーランドの北島にあるワイトモ鍾乳洞。 そこに生息するグローワーム(土ボタル)が虫を捕食するための粘液を出し、その粘液が青白い光を放つことにより、神秘的な光の洞窟となるのだという。 ヒカリゴケ、ヒカリモ、グローワーム、まだまだ、光る動植物はいるが、そうした話題はここまで。 このページの最後に、軍需工場跡のことについて、一言、触れておきたい。 観覧券販売所で貰ったリーフレットに「戦時中、横穴群のある岩山に地下軍需工場の建設が行われ、数十基の横穴がこわされてしましました」とある。 現在の横穴墓の数は219基。 或る資料によると、発見時の数は237基。 軍需工場建設で18基が壊されたことになる。 当時の軍部は史跡保存よりも軍需工場建設優先であったことは明らかである。 工場が稼動し始めたのは、終戦間近の昭和20年7月。 軍部は無駄なことをやったものだ。 この地に軍需工場を建設しようと計画したとき、古墳時代の人々への冒涜になるのではないかとの思いはなかったのか。 吉見百穴は、そんなことを考えさせる史跡でもある。 次は、そもそもの目的である横穴墓群としての吉見百穴の見学に移ることとする。 フォト:2018年4月30日 (つづく) #
by kazusanokami-2nd
| 2018-04-30 23:34
| 武蔵国史跡めぐり
2018年 04月 30日
4月30日(月曜)、晴れのち曇り。 「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。 今回のプランは次の通り。 JR高崎線/鴻巣駅 ~黒岩横穴墓群 ~吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加 ~岩室観音堂 ~吉見百穴 ~吉見町埋蔵文化財センター ~大谷瓦窯跡 ~秋葉神社(多分、古墳) ~比丘尼山横穴墓群 ~雷電山古墳(大雷神社) ~東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に) ~東武東上線/東松山駅 吉見観音(岩殿山安楽寺)参拝を終え、岩室観音堂、吉見百穴を目指し、県道271号線を西へ走る。 「吉見百穴」の標識に従い、南へ、南西へと下る。 坂道を下る途中、「松山城跡」の標識が目に入る。 吉見百穴に関わる事前調べの際、懸造り様式の岩室観音堂なるものがあることを知り、プランに組み込んだ。 その際、松山城跡の存在も知ったが、プラン外とした。 予定外ではあったが、先ほど訪ねた吉見観音は立ち寄ってみて大正解だったので、松山城跡も訪ねてみたいと思ったが、そのまま通過し、坂道を下った。 岩室観音堂、そして、吉見百穴が目と鼻の先となったとき、崖下の「松山城跡」の案内板が目に入った。 松山城跡下。 松山城跡はこの崖の上の台地上あるようだ。 鉄格子で塞がれた大きな穴があるが、これが何かは不明。 大きさや形からして、この周辺にある横穴墓のようなものではなく、近隣の人の食料保存庫というようなものであったかもしれない。 崖下の説明板に目を通す。 ------------------------------------------- 松山城跡 この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのまま残されている貴重な文化財である。 市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向って一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。 この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。 城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永23年(1416年)ごろの上田上野介説などがある。 しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。 この城が天下に知られたのは、今から4、500年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。 のち、豊臣勢に攻められ、天正18年(1590年)落城した。 歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広一万石の居城となったが、松平氏が慶長6年(1601年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。 平成20年に国指定史跡となっている。 平成10年3月 吉見町・埼玉県
------------------------------------------- 説明書き冒頭に「市野川に突き出た部分...」とある。 この僅かな言葉で、この辺りの地形がよく理解できる。 城づくりの大事な要素に地形がある。 古墳めぐりをする中にあっても、地形は気になるもののひとつである。 何故なら、地形が古墳築造の場所選びの重要な要素となっていると思うからである。 崖下の「松山城跡」説明板の西隣りが岩室観音堂、その北側に吉見百穴、そして、少し西側に市野川が北から南に流れるという位置関係である。 岩室観音堂。 岩室観音堂は松山城跡がある台地の崖下に安置されている。 ------------------------------------------ 岩室観音と石仏 岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音という。 龍性院の境外仏堂である。 この観音のはじまりは、弘仁年中(810~824)といわれているが、確かな記録は残っていない。 松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590年)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失してしまった。 現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に、龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものである。 お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしてはめずらしいものである。 また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模したもので、八十八体の仏像がまつってある。 また、この石仏を拝めば、居ながらにして四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるとされている。 平成10年3月 吉見町・埼玉県 ------------------------------------------ もうひとつの説明書きにも目を通す。 ---------------------------------------------- 岩室観音について 一、縁起 武州比企郡岩室山の正観世音は、その昔、嵯峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴し、この地に至り、岩窟を選び、三昧に入り、観世音の尊像を彫刻し、この岩窟に納め、岩によりて殿をかまえ、岩室山と号し、多くの人を結縁せしめました。 天正の終わり頃、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆によって松山城が灰燼となり、その餘焔大殿にかかり、堂宇残らず焼失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。 その後、龍性院中興第三世・堯音法師が師命を受けて遠近を駈け巡って檀信徒の助力を募って、寛文年中に現在のお堂を造営したと伝えられています。 二、お堂 この建物、懸造りと称して、有名な京都清水寺の観音堂と同様で、稀に見る貴重な建物です。 三、ご縁日は毎月18日 災難除け、交通安全、商売繁盛、安産等あらたかな霊験は広く知られています。 岩室山龍性院 --------------------------------------------- 先ほど訪ねた安楽寺吉見観音の山号は「岩殿山」、こちらの龍性院の山号は「岩室山」、この辺りの地形をあらわした、よき山号である。 「あちら」と「こちら」。 ------------------------------------- 四国八十八札所 こちら 一番から五十一番 むこう 五十二番から八十八番 四国八十八ヶ所の霊場巡拝は、遍路の打ち振る鈴の音と南無大師遍照金剛の称号と御詠歌の歌声で賑わっています。 病気が治った 災難を免れた 家庭が平和になった 一度、遍路すればまた行きたくなるとは、経験者の偽らざる言葉です。 弘法大師が霊場を開き、衛門三郎がこれを整えてから、七、八百年から千年たつ現在、この信仰はますます盛んであります。 然し乍ら、四国まで出掛けるのは大変なことなので、ここに四国霊場と同じ八十八ヶ寺の如来、菩薩、明王、天がまつられています。 心を込めて参拝ください。 昭和五十年年十月月吉日 (弘法大師千百五十年記念事業) 岩室山龍性院 ------------------------------------- 「こちら 一番から五十一番」。 連れ合いが讃岐出身なので、四国八十八箇所は馴染み深い。 jitensha を始めて間もない頃、何れ、jitensha に乗り、四国八十八箇所札所めぐりをやるかもしれないと思い、「四国八十八箇所札所/バーチャル・ポタリング」をしたことがある。 そのとき、四国八十八箇所札所は、何故、阿波から始まり、土佐、伊予、讃岐の順になっているのかとの長年、抱いて来た疑問も解けた。 江戸時代初期の高野聖で、大阪在の真念法師は、四国遍路について現存する初めての旅行案内書といわれる『四國邊路道指南』と、その霊験記である『四國徧禮功徳記』を出版し、遍路屋(真念庵)の建立や標石の造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされているウィキペディア抜粋)。 このことから分かる通り、当時の四国遍路は、大坂から淡路島を経由して、鳴門に入ることから、阿波、土佐、伊予、讃岐の順となったのである。 因みに、現在の県別で見ると、徳島県:23箇所(雲辺寺を除く)、高知県:16箇所、愛媛県:26箇所、香川県:23箇所(雲辺寺を含む)となっており、小生がこれまで参拝した札所は21箇所、オール香川県である。 これは、ポタリングによるものではなく、連れ合いの実家を訪ねたときなどに参拝したものである。 上述の説明書きに、「弘法大師が霊場を開き、衛門三郎がこれを整えてから」とあり、ここで、衛門三郎について触れておきたい。 衛門三郎は、四国巡礼にまつわる伝説上の人物である。 その伝説とは(ウィキペディアからの抜粋)。 ----------------------------------------- 天長年間(824年~834年)の頃、伊予国を治めていた河野家の一族に、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。 三郎は権勢を振るい、欲深く、民の人望も薄く、あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとしたが、これを追い返した。 その僧はその後も毎日現れ、遂に8日目には僧がささげていた鉢を竹のほうきでたたき落とした。 鉢は8つに割れ、その後、僧は現れなくなった。 実は、この僧は弘法大師だったのである。 三郎には8人の子がいましたが、その時から毎年1人ずつ亡くなり、8年目には子が皆亡くなってしまった。 悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものかと後悔する。 三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出た。 巡礼を重ねるも、大師には出会えなかった。 大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまった。 死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの大師の問いかけに、来世には河野家に生まれ変わり、人の役に立ちたいと託して息を引き取った。 大師は路傍の石を取り『衛門三郎』と書いて、左の手に握らせた。 天長8年10月のことあったそうである。 翌年、伊予国の領主、河野息利(こうのおきとし)に長男が生まれたが、その子は左手を固く握って開こうとしなかった。 息利が心配して安養寺の僧に祈願させたところやっと手を開き、『衛門三郎』と書いた石が出てきた。 その石は安養寺に納められ、後に『石手寺』と寺号を改めたという。 石は寺宝となっているそうである。 ----------------------------------------- この伝説には、「8日目」、「8人の子」、「8年目」、「天長8年10月」など、「8」に纏わることが多く出て来る。 これは「八十八箇所札所」の「八」と関係があるのだろうか。 調べてみた。 伝説に言及したものはなかったが、「人間の88ある煩悩を霊場をひとつずつ消していくため88ヶ所の霊場をまわるという説」、「人間の厄年の年齢(男性42才、女性33才、子供13才の年の合計)を合わせた数が88になることから厄除けで88ヶ所の霊場をまわるという説」、「日本人の主食であった『米』の字を分解したという説」、「末広がりで、無限の宇宙をあらわすという説」など、諸説あり。 岩室観音の由緒や四国巡礼の話題はここまでとし、次は「胎内めぐり」を。 穴がハート型の胎内くぐり。 事前の調べでそうしたものがあるということを知ったので、ミーハー的ながら、先ず、それをトライすることにした。 裏の崖を上る。 鎖を見つけた。 鎖のある上り道の方へ移動する。 鎖をつかみ、上る。 ハート型の胎内をくぐる。 くぐったあとの崖下を眺める。 下りる前に、武衛さんと南国守さんに「おーい、胎内くぐり、しませんかぁー」と声を掛ける。 何処からか、南国守さんの声で「安産祈願だろうー」との声が聞こえる。 「無病息災、健康第一、何でもありのはずだよー」と応える。 穴を抜けたところで待つ。 穴は、確かに、ハート型である。 誰かが上がって来る気配がする。 武衛さんが現れた! 胎内くぐりの崖から下りる。 一直線に続く上り道を下から見上げる。 ここからでも松山城跡へ行けるのかもしれない。 坂を下り、お堂へ向かう。 お堂の上階へ上がる。 階段下に、胎内めぐりの貼り紙あり。 先ほどの、南国守さんの「安産祈願だろうー」の声に対し、「無病息災、健康第一、何でもありのはずだよー」と応えた通り、安産以外のご利益もあり。 上階。 岩室観音堂の名に相応しい雰囲気。 数々の奉納額の中で一際、目立つのがこの額。 さて、何が描かれているのか、目を凝らして見てみる。 馬の頭の部分がずらっと描かれている。 村の名前が書かれている。 そして、馬の脇にも名前が見える。 持ち主の名かと思ったが、どうも馬の名前のようである。 例えば、 「奉納 大願成就」と書かれた左側に見えるのは「北野村」、「古凍村」、右側に見えるのは「九貫村」、下の方には、「中新井村」、「野田村」、「大串村」、まだまだあるが、これくらいで。 馬の名と思われものは、いっぱいあり過ぎて書ききれないが、「神源」、「長政」、「新喜」、「山繁」などなど。 西側の眺め。 市野川の緑の土手が見える。 階段を下る。 北側の階段(下りたのは南会談で、これは写真だけ)。 南側の階段。 下りたのはこちらの階段。 次は、吉見百穴。 岩室観音堂の向かいの、横道に入ると吉見百穴。 歓迎の横断幕。 「ようこそ吉身町へお越しくださいました 日本一の横穴古墳群 よしみひゃくあな」。 吉見町は、」吉見百穴に、相当、力を入れていることがよく分かる。 吉見百穴へ向かう道に立つと、住宅の間に吉見百穴がちらっと見える。 アップで。 マンホール・コレクション。 図柄は吉見百穴と埴輪。 吉見百穴を知らない人が見たら、イチゴに見えるかも。 イチゴは吉見町の名産だから、それでもよいのだが、などと勝手なことを考えたりして...。 フォト:2018年4月30日 (つづく) #
by kazusanokami-2nd
| 2018-04-30 23:33
| 武蔵国史跡めぐり
2018年 04月 30日
4月30日(月曜)、晴れのち曇り。 「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。今回のプランは次の通り。 JR高崎線/鴻巣駅 ~黒岩横穴墓群 ~吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加 ~岩室観音堂 ~吉見百穴 ~吉見町埋蔵文化財センター ~大谷瓦窯跡 ~秋葉神社(多分、古墳) ~比丘尼山横穴墓群 ~雷電山古墳(大雷神社) ~東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に) ~東武東上線/東松山駅 八丁湖北側の黒岩横穴墓群の見学を終え、公園入り口の観光案内図を眺める。 事前調べをして来ていても、現地で観光案内図を見ることにより、新しい情報を得ることもあり、こうした案内図を見ることは大事なことと思っている。 案内図に三重塔の図柄で示された「吉見観音」に目を惹かれる。 吉見観音は、直ぐ近くである。 行ってみることにする。 だが、案内図の赤で示された道を実際に眺めると劇坂である。 一旦、県道271号線に出て、西に走る。 平坦な道から緩やかな坂を上る。 右に「吉見観音」の標示あり。 参道を進む。 左手に、ソフトクリームの幟旗、そして、厄除け団子と貼り紙された茶店。 「参拝が済んだら、茶店に寄って、ソフトを食べようね」と話ながら、茶店の前を通り抜ける。 「坂東十一番 岩殿山安楽寺」。 石段脇に駐輪する。 大口径さんにちょっと遠慮して。 小径車だからといって、遠慮することはないんだけどね...。 仁王門。 本堂。 扁額コレクション。 参拝を終えたところに、「上総さん、左甚五郎の虎、見ましたか?」との南国守さんの声。 「どれ、どこ、どこ」。 「そこに『左甚五郎作 野荒しの虎』の札が掲げられているでしょう」。 「ありますね」。 「野荒しの虎の彫刻はその札の上の方です」。 撮影禁止であろうがなかろうが、本堂内部の写真は撮らないのが礼儀である。 いつも、そう思い、そうしているのだが、今回に限り、禁を破って、しかし、正面は外して、左側だけを撮らせて貰った。 どのような謂れのある彫刻であろうかと、吉見町のHP掲載の「安楽寺」を参照してみた。 寺の由緒や、本堂、三重塔、仁王門などについては縷々書かれているが、不思議なことに、左甚五郎作「野荒しの虎」に関わる記述は見当たらない。 あれこれ検索していたところ、旅行サイト「じゃらん」にこんな紹介があった。。 ------------------------------------------ 吉見観音(安楽寺) 坂東三十三観音霊場第11番札所の古刹です。 (中略) 本堂内部の欄間には左甚五郎作と伝わる虎の彫刻が納められています。 この彫刻は「野荒しの虎」と呼ばれ、面白い伝説があります。 夜ごと、この彫刻の虎はお堂を抜け出して付近の家畜や田畑を荒らし、村人を大変困らせていました。 ある夜、村人が総出で虎狩りをした際に、虎の足を槍で突くことに成功しましたが、残念ながら逃げられてしまいました。 血の跡を辿ってみると、当寺のお堂まで続いており、今まで無かった欄間の虎の後足にたくさんの血が付いていたと言われています。 よく見ると確かに後ろ足に傷があり、不思議な気持ちになります。 -------------------------------------------- 写真を今一度、眺めてみた。 右後ろ足の太ももから膝に掛けて、黒っぽい筋状のものが見えなくもない。 これが傷かもしれない。 三重塔。 再び、石段下へ。 梵鐘がぶら下がった太い棒(撞木なのかな?)に担いでいるおっさんの彫刻であるが、何か深い意味があるのかもしれない。 こちらは、鴨(と思われる)。 こちらは、滝で耳を洗う許由と牛に水を飲ませようと川へ牛を引いて来た巣父。 この彫刻の意味するところは、今月初旬、京都・西本願寺唐門を尋ねた際にベンキョーした。 西本願寺唐門でベンキョーした彫り物の故事は次の通りである。 ここに転載したマイ・ブログの後半に当該故事について縷々綴っている。 =======2018年4月6日付け「春の京都/西本願寺(下)」より抜粋======= 西本願寺。 唐門。 境内の南側には、東から北に向かって、唐門、大玄関門、台所門と三つの門が並ぶ。 大玄関門を眺めながら、こりゃー、時代劇の撮影に使われているなあと、ロケ地訪問も趣味としていることでもあり、そう呟く。 唐門を外からも眺めたいと思ったとき、台所門に立つ守衛さんと目が合った。 「この門の木戸から外に出して貰えるでしょうか。唐門を外からもみたいもんで」と声を掛けた。 「もちろん、出入りしていただいて結構です」、更に言葉を続けて、「唐門は6月から修理に入りますので、ちょうどいいときに見学に来られました」、そして、「唐門の彫刻について説明しましょうか」と。 唐門外側の「黄石公と張良」の故事、唐門内側の「許由と巣父」の故事について、見事な口調での説明を拝聴した。 ひとことで言うなら、門の外は俗世間、門の内側は浄土というものであった。 その故事について、守衛さんの話プラス小生の補足も加え、唐門の外側と内側の彫刻の写真と共に綴っておきたい。 台所門の木戸から南側の北小路通に出る。 大玄関門を外側から眺める。 やっぱり、これは時代劇のロケに使われているなあと呟く。 唐門を外側から眺める。 唐門外側の彫り物の故事はこうだ。 張良は夢で老人(黄石公)に兵法を教えてやろうといわれる。 その後、張良が老人と会ったとき、老人は自分の靴を川に投げ捨て、張良に拾わせようとする。 張良は屈辱に思いつつも、靴を拾うため川に飛び込む。 靴を探していると龍が現れ、張良は龍を退治する。 すると、龍は靴を差し出し、張良は龍に乗って地上に戻り、老人に靴を差し出す。 結果、老人は張良に兵法の書を渡した。 左/龍に乗り、靴を差し出す張良、右/馬に乗った黄石公。 アップで。 龍に乗り、靴を差し出す張良/外側から。 龍に乗り、靴を差し出す張良/内側から。 馬に乗った黄石公/内側から。 馬に乗った黄石公/外側から。 再び、台所門の木戸から中へ入る。 内側から唐門を眺める。 滝の水で耳を洗う許由と牛を曳いてきた巣父の彫り物を眺める。 唐門内側の彫り物の故事はこうだ。 許由は清廉潔白な人で、人徳も高く、人々から尊敬されていた。 このことを伝え聞いた中国の名帝・堯は天子の座を許由に譲ろうとした。 これを知った許由は「世俗事の汚れた話を聞いてしまった」と、山奥に逃げ、穎川の滝で耳を洗い、隠世した。 牛を引いて来た巣父が、許由が耳を洗っているの姿を見て、「牛に、こんな汚れた水は飲ませられない」と引き返したという。 滝で耳を洗う許由。<br> 牛に水を飲ませようと川へ牛を引いて来た巣父。 唐門外側の、張良と黄石公の故事は、出世など俗世をあらわしている。 唐門内側の、許由と巣父の故事は、欲にまみれることのない、精錬潔白な世界、即ち、浄土をあらわしている。 唐門を境にして、そうした、ふたつの世界をあらわしているというのであった。 守衛さんに礼を伝え、南側から、再び、東側の境内へ。 フォト:2018年4月1日 (以上、2018年4月6日付け「春の京都/西本願寺(下)」より抜粋) ===================================================== 八丁湖公園で観光案内図を見て、当初、予定していなかった吉見観音を訪ねることとなったのだが、訪ねてよかった。 京都西本願寺唐門の彫刻を見学したのが、今月の朔、そして、ここ、安楽寺(吉見観音)の彫刻を見学したのが、同じ月の晦日、奇遇である。 これを以て、門の内側に設えられた許由と巣父の故事の彫刻を2例、見たことになったのだから。 門の内側(もちろん、外側も)の彫刻に出会うのが今後の楽しみとなった。 仁王門をくぐり、表から仁王像を眺める。 阿形仁王像。 吽形仁王像。 安楽寺(吉見町HPより) 岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。 本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。 平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。 この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。 天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。 毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。 現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。 本堂(吉見町HPより) 岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。 「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。 延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、その後、源平の合戦で名高い源範頼みなもとののりよりが吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが北条氏との戦いですべて消失した。 現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されたものである。 その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持している。 屋根はもと柿葺であったが、大正12年の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。 三重塔(吉見町HPより) 現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。 総高約24.3m方三間の三重塔では基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられている。屋根は柿葺あったが、現在は銅板葺に改められている。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、また各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせる。 仁王門と仁王像(吉見町HPより) 本建造物は、境内の入口に南面して立つ三間一戸の八脚門である。 規模は、表三間のうち両側の仁王像安置の間が七尺八寸五分(約2.38m)、中央は九尺七寸(約2.94m)である。側面は二間とも七尺八寸五分(約2.38m)である。 正面両端間には金剛棚を廻めぐらし内部に"阿”"吽”の密迹金剛力士二体を安置している。屋根は瓦葺であったが、現在は銅板葺に改められている。 仁王像の造立は息障院文書から元禄15年(1702年)と考えられている。 平成8年~10年に実施した解体修理で、元禄年間の造立時の寄進者を列記した幅六寸、長五尺二寸の板が胎内から11枚発見された。 黒岩横穴墓群を見学して来たことでもあり、安楽寺の山号「岩殿山」はまさにぴったりの山号だなと思った。 参道の茶店に立ち寄り、ソフトクリームと厄除け団子を頂戴する。 店番の女の子が注文を受けてくれる。 南国守さんがあれこれと話し掛ける 「中学生ですか」。 「中学1年です」。 「美人だねぇ」。 「とんでもないです」。 中学1年で「とんでもないです」と受け答えするのは、いつも言われている証しであろう。 北川景子似のきりっとした顔立ちの美人さんである。 美人は得である。 乗用車が次々と来て、厄除け団子を買っていく。 一度に何十本もである。 人気の団子なのだ。 岩室観音堂、吉見百穴を目指し、県道271号線を西へ走る。 フォト:2018年4月30日 (つづく) #
by kazusanokami-2nd
| 2018-04-30 23:32
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