人気ブログランキング | 話題のタグを見る

上総守が行く!(二代目)

kazusankm2.exblog.jp
ブログトップ
2017年 10月 16日

『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5

10月15日(日曜)、雨。
上野国史跡めぐり、第7弾「綿貫古墳群+群馬県立歴史博物館」。

綿貫観音山古墳と群馬県立歴史博物館での講座聴講を目的とした今回の上野国史跡めぐり。
生憎の雨で、jitensha 携行は諦め、バスと徒歩での雨中行軍。
綿貫古墳群の不動山古墳、普賢寺裏古墳(道を歩きながら横目に眺めただけだが)、綿貫観音山古墳を探訪。
つづいて、群馬県立歴史博物館へ。

群馬県立歴史博物館。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_05365396.jpg

県立博物館は県立公園「群馬の森」の中にある。
県立公園「群馬の森」は、明治百年記念事業の一環として計画され、1974年に開園した都市公園。
園内には、県立博物館のほか、県立近代美術館もある。

この付近一帯は、烏川と井野川の舟運の便が良く、水車の動力も得やすいことから、1882年(明治15年)、黒色火薬の製造所である東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所が設置されていた。
その後、1923年(大正12年)に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」へ、1940年(昭和15年)に「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」へとそれぞれ改称し、1945年の終戦を迎えるまで、黒色火薬やダイナマイト、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産・供給を行なっていた。

公園の南側に、日本化薬(株)高崎工場(化学・ゴム・プラスチック部門)がある。
同社の前身の、日本初の火薬メーカー、日本火薬製造(株)は、本邦初のダイナマイトを製造した会社でもある。

公園の北側に、国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構 高崎量子応用研究所がある。
グーグル・マップの航空写真を見ると、その構内と思しきところに「岩鼻二子山古墳平削跡」と図示されている。
先刻、「綿貫古墳群は、南から岩鼻二子山古墳、不動山古墳、普賢寺裏古墳、綿貫観音山古墳の4基の前方後円墳と、これらの周囲に分布する円墳群から形成されている」ということをベンキョーすると共に、不動山古墳、普賢寺裏古墳(これは道を歩きながら横目に眺めただけだが)、綿貫観音山古墳を探訪、更に、グーグル・マップ上ではあるが、岩鼻二子山古墳平削跡もこの目で視認出来た。

県立博物館の前で、雨に濡れながらはためく「東国文化+ぐんまちゃん」の幟旗。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_06232584.jpg

群馬県のマスコット「ぐんまちゃん」をアップで。
古代人の姿をした「ぐんまちゃん」に会ったのは、この4月、渋川市北橘町の群馬県埋蔵文化財調査センター/発掘情報館を訪ねたとき以来のことである。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_06254573.jpg

グランドオープン記念企画展「海を渡って来た馬文化~黒井峯遺跡と群れる馬~」。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_06473326.jpg

この看板からいろんなことが読み取れる。

看板の上段に、先刻、訪ねた綿貫観音山古墳出土の埴輪「三人童女」があしらわれている。
この博物館の売りは、この「三人童女」なのであろう。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_07055664.jpg

看板の最下段の山並みは、黒井峯遺跡から眺めた榛名山である。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_07093891.jpg

看板の右下に、小さく「1500年のときを超え… 甲(ヨロイ)を着た古墳人 今ここによみがえる!! 復顔像初公開」とある。
これをアップで。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_07133614.jpg

渋川市の金井東裏遺跡から出土した「甲(よろい)を着た古墳人」のレプリカが群馬県立歴史博物館にあるということを耳にしたのは年初の頃であったかと。
これを見学に行こうと思い、県立歴史博物館のHPを検索したところ、改装工事中で、レプリカは見学は出来ないようであった。

そうこうしているうちに、4月下旬、史跡めぐりの相棒、武衛さんと渋川市へ。
日本のポンペイともいわれる黒井峯遺跡(渋川市中郷、子持山山麓)、金井東裏遺跡(渋川市金井)、渋川市立赤城歴史資料館(渋川市赤城町)、群馬県埋蔵文化財調査センター/発掘情報館(渋川市北橘町)をめぐった際、群馬県埋蔵文化財調査センター/発掘情報館で「甲(よろい)を着た古墳人」の展示があり、その姿をじっくりと見学することが叶い、且つ、学芸員さんから「ヨロイを着た古墳人は、榛名山に向かって、こういう風に、両膝を付き、腰を曲げ、うつぶせになるような格好で発見されました」と、発見されたときの様子を自ら床に膝をついたりして、懇切丁寧な説明を頂戴した。

ということで、県立博物館で「甲(よろい)を着た古墳人」の姿を見る必要はなくなったが、この看板によれば、この「ヨロイを着た古墳人」の復顔像が展示されているということなのである。

館内に入る。

展示案内。
東西古墳文化展示室「綿貫観音山古墳の世界」
通史展示室「原始~近現代の群馬」
企画展示室「海を渡って来た馬文化~黒井峯遺跡と群れる馬~」
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_11285331.jpg

時間の都合もあり、企画展示室「海を渡って来た馬文化~黒井峯遺跡と群れる馬~」のみを見学。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_11311542.jpg

展示物は撮影禁止であり、後日のベンキョー用あるいはブログ用の写真は撮れず。
よって、いつもなら展示物について、写真と共に縷々綴るところではあるが、「展示物を興味深く見学した」とだけ記し、今回は残念ながら詳細は割愛する。

全国各地の博物館や資料館を訪ねているが、撮影禁止もあれば、撮影OKのところもある。
一例として、これまでに訪ねた群馬県内の博物館や資料館の、撮影OK、撮影禁止をここに記しておこう。

(1)撮影OK:
・かみつけの里博物館(高崎市/保渡田古墳群併設)
 ※一部、撮影禁止エリアあり、撮影許可申込書提出
・総社歴史資料館(前橋市/総社古墳群併設)
・吉井町歴史民俗資料館(高崎市)
・多胡碑記念館(高崎市/多胡碑併設)
・群馬県埋蔵文化財調査センター/発掘情報館
(2)撮影禁止:
・赤城歴史資料館
 ※撮影許可申込書を提出し、極、一部のみ撮影(廊下に掲示された蝶の資料)
・群馬県立歴史博物館

他所からの借り物の展示物については制限がつけられても仕方がないと思うが、当該博物館・資料館独自の所蔵物について制限をつけるのは解せない。
所蔵物は市民・県民・国民の財産であり、撮影時のフラッシュ禁止は当然のこととして、撮影OKとすれば、後日のベンキョー用として大いに役立つこととなるのだが...。
因みに、国内のほとんどの美術館は撮影禁止だが、海外の美術館はフラッシュを使わないなど、他の鑑賞者の迷惑にならないようにすれば、撮影OKである。
気に入った絵画は写真に撮って、自宅に戻ってからも楽しんでね、という美術館側の配慮である。
そういえば、群馬県埋蔵文化財調査センター/発掘情報館で、撮影可否を尋ねたところ、「自由に撮ってください。写真を撮って、埋蔵文化財の学習に使って貰うなど、大いに結構なことです」との言葉が今も頭の中に残っている。

館内の講演会場に入る。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_12065527.jpg

-----------------------------------
弟93回企画展 連続講座第二回
講演(1)「黒井峯遺跡等から見た古墳時代 馬の生態」
講師 石井克己氏(元渋川市教育委員会文化財保護課長)
講演(2)「古代『群馬』の馬」
講師 前澤和之氏(上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会委員)
------------------------------------

事前に配布されたレジメとパワーポイントにより、ふたつの講座を興味深く拝聴。
本ブログでは詳細は割愛するが、黒井峯遺跡と県名「群馬」の由来の2点についてのみ、ここに書き留めておきたい。

”日本のポンペイ”、黒井峯遺跡。
4月に、渋川駅から自転車で坂道を上り、黒井峯遺跡を訪ね、実地検分済みであったので、講演内容はよく理解できた、そして、新しい知識を得ることも出来た。
現地を知った上で講師の話を聞くのは、誠に心地のよいものである。

黒井峯遺跡発掘時の様子。
遺跡は、子持山南麓で発見された。
彼方に見える山並みは、榛名山。
1500年前の榛名山の噴火で噴き出された軽石で埋まっていた状態で発見されたことから、”日本のポンペイ”と呼ばれるようになった。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_12145957.jpg

利根川と吾妻川に挟まれた”三角地帯”。
黒井峯遺跡は、子持山の南の、この三角地帯に位置する。
受講中、この写真が映し出されたとき、jitensha で息をきらせながら、利根川や吾妻川の河岸段丘を上ったことが蘇った。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_12183457.jpg

県名「群馬」の由来。
群馬県の名の起こり、「車評」から「群馬郡」に変遷を辿ったという由来をしっかりとベンキョー。
-----------------------------------
『和名類聚抄』(平安時代中期、承平年間(931年 - 938年)に編纂された辞書)に「群馬 久留末」とあり、現在の前橋市・高崎市を含む群馬郡は「クルマ」とよばれていたことが分かる。

更に遡って、藤原宮跡出土の694~701年の間の木簡に「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と書かれており、『和名類聚抄』の「群馬 久留末」を裏付けている。

大宝元年(701年)、大宝律令が制定され、国郡里制(後に、「里」は「郷」に)が地方行政・地方官制の方式となった。
大宝律令が制定される以前は「評(こおり)」と表現される地方行政組織は、大宝律令の制定によって「郡(こおり)」と改められたのである。

更に、和銅6年(713年)、諸国郡郷名著好字令により、郡や郷の名の表記には好字(こうじ、良い意味を持った文字)を使い、且つ、2文字で表すようにされたため、「クルマ」の表記は「車」から「群馬」に改められた。

『和名類聚抄』で、同じ「クルマ」の地名を探してみると、淡路国津名郡の郷に「来馬」、「久留万」の名がある。
今も兵庫県淡路市(旧津名郡東浦町)には「久留麻」の地名があり、延喜式内社の久留麻神社が鎮座している。
「来馬」の「来」は「クル」の音と一致するが、「群馬」の「群」は「クリ」と呼ばれることはあっても「クル」と呼ぶ例は他にはない。

「群」は好字として選ばれ、当て字とされたもので、「群馬」の地名表記はその字が示す「馬が群れる」が重視されて選ばれたとみることが出来る。
--------------------------------------

以上が、今回の「古代『群馬』の馬」講座の中でベンキョーした「車評(くるまごおり」→「群馬郡(くるまごおり)」→「群馬県」の由来である。

「群馬の本」。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_12195028.jpg

上段、左から:
①「古墳構築の復元的研究」(右島和夫・土生田純之・曹永鉉・吉井秀夫著、金雄山閣)
②「上野三碑を読む」(鎌倉浩靖著、雄山閣)
③「東国から読み解く古墳時代」(若狭徹著、吉川弘文館)
④「古墳時代の地域社会復元 三ツ寺Ⅰ遺跡」(若狭徹著、新泉社)
中段、左から:
⑤「ぐんまの城 三十選 戦国への誘い」(飯森康広・清水豊・秋本太郎著、上毛新聞社)
⑥「上野の戦国地侍」(梁瀬大輔著、みやま文庫)
⑦「長野業政と箕輪城」(久保田順一著、戎光祥出版)
⑧「古代の東国」全三巻(吉川弘文館)
 第一巻「古墳時代 前方後円墳と東国社会」(若狭徹著)
 第二巻「飛鳥・奈良時代 坂東の成立」(川尻秋生著)
 第三巻「平安時代 覚醒する<関東>」(荒井秀規著)
下段:
「みやま文庫」各書
「みやま文庫」は”群馬の百科全書”とも称される文庫。
1961年(昭和36)年に群馬県の地域文化の向上と深化を目的に、会員制の出版活動として発足し、現在に至るまで、数多くの群馬県に特化した本を社会に送り出し、その数は200余巻を数えるという。

上記⑧「古代の東国」/第一巻「古墳時代 前方後円墳と東国社会」(若狭徹著、吉川弘文館)は、4月に群馬県立埋蔵文化財センター/発掘情報館を訪ねた際、ロビーの書棚に置かれた何冊かの書籍の中にあったもので、後日、図書館で借りて読んだ書籍である。

この「群馬県の本」の棚に、「日本の古代遺跡を掘る 4 黒井峯遺跡」(石井克己・梅沢 重昭著、読売新聞社) があればよかったのだが、とも思うのである。
この書籍は、群馬県埋蔵文化財調査事業団のHPの黒井峯遺跡に関する解説の中で「市教育委員会の調査担当者が書き下ろした、一般向けの解説書です」と紹介されていおり、この4月の黒井峯遺跡探訪の前後に図書館で借りて読んだ書籍である。

県立歴史博物館を出ると、雨が煙る中、県立近代美術館前に立つ馬の像が目に入った。

「巨きな馬(おおきなうま)」像。
フランス人彫刻家、アントワーヌ・ブールデンの作。
『上野国史跡めぐり/群馬県立歴史博物館』 wk-5_f0339895_16291503.jpg

「群馬の森」バス停からJR倉賀野駅へと向かう。
倉賀野駅前には店が全くなく、車内反省会の飲み物、つまみ、弁当はゲット出来ないまま、電車に乗り、帰館。

フォト:2017年10月15日

(完)


by kazusanokami-2nd | 2017-10-16 23:35 | 上野国史跡めぐり


<< 『下総国史跡めぐり/平将門伝説...      『上野国史跡めぐり/綿貫観音山... >>