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上総守が行く!(二代目)

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2016年 09月 13日

『上総国史跡めぐり/国府推定地その1/市原地区 光善寺薬師堂』 kk-3

9月10日。
上総国史跡めぐり。

上総国総社、飯香岡八幡宮から、上総国府推定地、市原地区/光善寺薬師堂へ向かう。
市原地区/光善寺薬師堂は、国府推定地4ヶ所のうちのひとつ目である。

光善寺薬師堂に到着。
境内は清掃の真っ最中。
『上総国史跡めぐり/国府推定地その1/市原地区 光善寺薬師堂』 kk-3_f0339895_9465494.jpg
何故、清掃中なのか、それは後ほど清掃作業をしていた地元の人との会話で判明。
詳しくは後ほど述べたく。

「お邪魔します」と声を掛け、境内に。

光善寺薬師堂。
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縁起。
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光善寺薬師堂縁起
言い伝えでは、薬師堂は元禄13年庚辰年(西暦1700年)迄に970年を経た古い建物です。
また、本尊の薬師如来は聖武天皇治世の神亀元年申子(西暦724年)秋9月12日に行基菩薩が一夜で造仏したと伝えられております。
当地建立の縁起では光善寺は市原領主曽我稲目末葉で上野之介光重の一子曽我上総太郎光善で、その名を寺号としたと伝えられております。

御開帳 8月7日・8日
御霊水 参道坂下入口
麦飯石(影向石) 伝行基菩薩説法場所
光善寺廃寺跡 薬師堂裏
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光善寺石灯篭。
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市原市指定文化財
光善寺石灯籠
平成16年3月31日指定
安山岩製の石灯篭で、高さは約2メートルあります。
平面六角形の基壇、複弁の先小花付十二弁を刻む平面円形の基礎など、簡素ながら安定感のある姿を示します。
紀年銘はありませんが、細部の造形の特徴が温水春日神社(厚木市)の応永24年(1417年)銘をもつ石灯篭に類似することから、形態的に室町時代前期の作とみられ、千葉県内の石灯篭では最も古いものと考えられています。
火袋は江戸時代の補作ですが、全体的に残りも良い状態で、このような中世の石灯篭は関東においては希少な存在です。
なお、この地は奈良時代の光善寺廃寺跡と考えられ、境内地からは上総国分寺より古い時期の瓦が出土しました。
市原市教育委員会
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石灯篭もさることながら、古代寺院に興味のある我らにとって、最後の「なお、この地は奈良時代の光善寺廃寺跡と考えられ、境内地からは上総国分寺より古い時期の瓦が出土しました」も大事な記述なのである。

瑞石 影向石。
前述の「光善寺薬師堂縁起」に「麦飯石(影向石) 伝行基菩薩説法場所」と記された石である。
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瑞石 影向石(ようごうせき)
光善寺薬師如来縁起および飯岡八幡宮縁起によれば、聖武天皇の神亀年中に、行基(西暦668年~749年)が衆生救済のため天下を巡歴の途中に当地を訪れて、説法を行った。
ある時、「戴冠の異人」が現れ、この石の上で説法を聴いていたので、行基がどなたかと問うと、我は八幡大神であると名乗り、師の説法で仏の道への成就を願っていると申したので、貴意の思いで麦の飯に柳のはしを立てて敬った。
これにより飯岡八幡宮の秋祭礼には柳の楯と名付け、奉納し、御神事として行われているという説もある。
そこで、この石を瑞石影向石と写す、また、麦飯石とも言う。
なお、行基が献じた麦飯を栽培した麦飯田が当地にあると言われているが、現在は不明である。
(注)影向石とは神が後輪する際の御座(みくら)とする石で、「ようごういし」「みかげいし」という。
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この説明板では「飯岡八幡宮縁起によれば」と記されている。
これは飯香岡八幡宮のことで、「いいおか」ではなく、「いいがおか」と読むのであろう。
上総国史跡めぐりの事前調べの中で「飯香岡八幡宮」の「飯香岡(いいがおか)」は「飯の香りの岡」ではなく、「飯ヶ岡」を「飯香岡」とお洒落(???)に称したものではなかろうかと想像したりしていた。
説明板の中で、「飯岡八幡宮縁起」や「麦飯石」の言葉が登場し、八幡宮に冠された「飯香岡」の由来が分かったような気がした。

そして、第2話の「飯香岡八幡宮」で触れた「柳楯神事」のことも説明板に詳しく述べられている。

境内の隣には地元の集会所のような建物があり、その脇の掲示板にこんなポスターが貼られていた。
左/神輿渡御祭、飯香岡八幡宮、秋季大祭 平成28年9月15日、神輿渡御 平成28年9月18日
右/上総いちはら国府祭り 平成28年1月1日・2日
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「武衛さん、この左側のポスターに、柳楯神事の写真が掲載されています。どんな神事かのあらましは事前ベンキョーしました」と話しながら、その写真の箇所を指さす。
『上総国史跡めぐり/国府推定地その1/市原地区 光善寺薬師堂』 kk-3_f0339895_1223765.jpg
ちょうど、そこへ掃除の手を休めた婦人が会話に合流。
「柳楯に携われるのは司家である二軒の家だけです。今日は10日、神事は15日です。それでこの辺りを掃除しているんです。去年の写真がありますからお見せしましょう」と、スマホを取り出し、見せてくだすった。
それがこれ。
『上総国史跡めぐり/国府推定地その1/市原地区 光善寺薬師堂』 kk-3_f0339895_1210997.jpg
事前ベンキョーしていても、地元の人から生の話を聞けると嬉しい。
ちょうど、そこへ電話が掛かって来た。
話の内容からすると、阿須波神社の清掃は終わったよということのようだ。

次の訪問地、阿須波神社への道順を尋ねた。
「表通りに出たら左へ。通りの右側にある魚屋さんが目印。その角を右折」と教えて貰った。
事前の調べでおおよその場所は分かっていたが、一般道からの入り口がよく分からなかったので、助かった。
清掃で多忙な人たちの邪魔をしてはいけない。
礼を述べ、早々に退散し、阿須波神社へと向かう。

(備忘録)
柳楯神事に関し、事前ベンキョーしたこと、事後ベンキョーしたことをここにメモっておきたい。
柳楯神事は、飯香岡天満宮の秋季大祭(旧暦8月15日)で行われる最も重要な神事で、柳楯を担いで2日間かけて八幡宮に入る。
楯は柳の生枝25本を長さ1.4mに揃え、上部に葉を残して皮を剥ぎ、青竹5本を半分に割り、柳の枝を右に12本、左に13本並べ、その幹を青竹を5段で挟み、藁縄で結び、上部の藁で髷を結う。
司家である2軒の家が1年交代で祭礼の前日に柳楯を作ることとなっている。
大祭の前日、柳楯は司家から出振舞(でふるまい)に向かう。
先頭は警固の金棒役、白丁姿の若者が柳楯に通した竹を肩に担ぎ、前後に司家が供奉して進む。
出振舞(でふるまい)は、かつては区長宅で行われたが、今は公民館で行っている。
(備考/掃除中の婦人は「ここから出発します」と言っていたように記憶するので、記憶が正しければ、光善寺薬師堂の隣の集会所のような建物が公民館で、出振舞の場かもかもしれない。)
出振舞のあと、五所地区の年番の家を目指して出発する。
途中、旧八幡宮の鎮座跡とされる市原八幡神社に催行を報告し、阿須波神社で道中の安全を祈願する。
柳楯の重さは15~20kgあり、所々で休憩しながら進む。
旧村境で五所地区の年番が柳楯を出迎え、五所御三家が先導する。
五所公民館(旧行は年番宅)で受け渡しの儀式を行い、この日の行事は終了する。
柳楯は町民館で駐泊し、翌日早朝、壮麗な行列を整えて八幡宮に入る。

柳楯の神事は、神輿の原型とも神送りの特殊な形態ともいわれ、武神である八幡宮に神が降臨する霊木の柳で作った楯を捧げる意味があるとされている。

まことに興味深い神事である。

フォト:2016年9月10日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2016-09-13 23:58 | 上総国史跡めぐり


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