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上総守が行く!(二代目)

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2016年 08月 22日

『下野国史跡めぐり/龍興寺』 st-8

8月14日(日曜)。
下野国史跡めぐり。
下野薬師寺跡と隣接の下野薬師寺歴史館を訪ねたのち、その近くの龍興寺へと向かう。
朝、自治医大駅に到着し、駅前の案内板で、下総薬師寺の近くの龍興寺に弓削道鏡の塚があると知り、急遽、コースに加えたのであった。

下野薬師寺歴史館の案内人さんに「弓削道鏡は、左遷先がこの地になったのは何故なのでしょう?」と尋ねたところ、「文官は大宰府へ、僧は下野薬師寺へ、ということのようです」と、明快な答えであった。
菅原道真は怨霊となって京の都へ、後に、天神として祀られることに。
さて、弓削道鏡は?

龍興寺。
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山門をくぐり、境内に入る。
左手に、道鏡塚を<発見>!
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道鏡禅師の墓所
奈良時代の高僧、道鏡禅師の墓所(道鏡塚)が当所です。
道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁あら法相を学び、梵文(サンスクリット)と写経に通じ、如意輪法・宿曜法(にょいりんぽう・すくようほう)、あわせて、薬法や医術にも精通された高徳の僧です。
天平勝宝年間、(宮中)内道場の看病禅師となりました。
そして、孝謙上皇の病を療治した功績により、天平宝字7年(763年)、少層都(しょうそうず)に任じられました。
その年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。
新しい政治を進めようとする天皇より、天平神護元年(765年)、道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に准ずる待遇の法王に任命されました。
禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を上げましたが、宝亀元年(770年)8月4日、称徳天皇が崩御されますと、同年8月21日、下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、平城の都から遣東されました。
禅師は、薬師寺に着任後も、各地で積極的に巡錫や親教をし、多くの人々を教化してきましたが、宝亀3年(772年)4月7日、日本三戒壇の一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と人々の幸せを祈りながら、その生涯を閉じました。
人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。
かつての道鏡禅師に対する偏見は、その時代時代の権力者側の思惑や作為によるもので、決して正しい評価ではなかったことを遺憾に思います。
私たちは、真実の歴史を探求してこられた先達に経緯を表し、その意思を受け継ぎ、道鏡禅師のさらなる顕正をめざしています。
平成28年(2016年)4月7日
龍 興 寺
道鏡を守る会
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弓削道鏡というと、<悪>というイメージ。
しかし、説明文にある「道鏡禅師に対する偏見は、その時代時代の権力者側の思惑や作為によるもの」ということは、あながち、間違いではないだろう。
ただ、天皇に次する地位にまで上り詰めた人物でありながら、立派な墓はなく、古墳を墓標としたことは、時の政権に遠慮したか、この地の人々の思いとして、道鏡の都での行いについて何か引っ掛かるものがあったということも言えるであろう。

道教は、河内国、今の大阪府八尾市のあたりを拠点としていた豪族、弓削氏の出身である。
念のため、八尾市のホームページを開いてみたところ、次の通り、掲載されたいた。
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道教と八尾。
弓削道鏡(?~772年)は奈良時代の高僧で、八尾市南部を拠点にしていた豪族・弓削(ゆげ)氏の出身です。
「弓削」という文字は、今も八尾市の地名に残っています。
弓削道鏡は、宮中での看病に功績があったとして称徳天皇(718年~770年)からの信任が厚く、太政大臣禅師、法王と次々と重要なポストを務めたといわれています。
称徳天皇は、平城京とは別に行幸する際の西の京(みやこ)として、現在の由義(ゆげ)神社(八尾市八尾木北5丁目)付近に由義宮(ゆげのみや)を造成するための工事を進めていましたが、称徳天皇の崩御とともにそれらは中止されました。
弓削道鏡自身も政敵との争いに巻き込まれ、その地位から失脚し、その後、下野国(現在の栃木県)に左遷され、称徳天皇の後を追うように、その地で生涯を終えたといわれています。
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更に、調べると、八尾市立図書館のホームページでは、次の通り掲載されたいた。
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弓削道鏡
弓削道鏡といえば、孝謙(称徳)女帝の寵愛をよいことに僧侶の身でありながら位人臣を極め、挙句には皇位さえうかがった稀代の悪僧というイメージが一般的です。
しかし、近年こうした悪評を疑問視する声も多くなっています。
道鏡を失脚させたのは藤原氏であり、道鏡大悪僧説の出所である「続日本紀」は、藤原色の濃い史書であるからです。
そこに明治以降の皇国史観が加わり、“極悪人道鏡”というイメージが定着し、ほとんど修正されないまま今日にいたったというのです。
難解な仏典やサンスクリット語に精通した第一級の知識人であったという道鏡、その彼を“道鏡さん”と親しげに呼ぶ人が、八尾では着実に増えているようです。
※以下、弓削道鏡に関する書籍名/編者/出版社/出版年が列挙されている。
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龍興寺の説明板も八尾市立図書館のホームページもほぼ同じトーンで記されている。
<地元>としての贔屓もあるだろう。
何を「正」とするか、歴史は難しいものである。

山門をくぐり、寺の外に出る。
龍興寺に到着したときに、見落としていた「龍興寺(下野薬師寺別院)略縁起」に目を通す。
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龍興寺(下野薬師寺別院)略縁起
◎天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳8年(680年)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、聖武天皇の勅願により戒壇を開いた鑑真和尚(688年-763年)が天平宝字5年(761年)唐の揚州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺として開基。
直末三十七ヶ寺の本寺である。
◎太政大臣・法王 弓削道鏡禅師(708年-772年)は宝亀元年(770年)8月造下野薬師寺別当職として着任したが、宝亀3年4月7日歿する。
◎日光開山 勝道上人(735年-817年)は、天平宝字5年(761年)栃木出流山から龍興寺に移住し、4年間の修行の後、天平神護元年(765年)日光へと赴く。
◎弘法大師 空海(774年-835年)は、弘法11年(820年)5月から7月まで龍興寺に逗留し、如意・恵雲等に密教を伝授した。
爾来、龍興寺は六宗兼学に加えて真言道場となる。
(以下、縷々記載されているが、本ブログでは割愛する。罰が当たりそうだが...)
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8月16日付け/第2話「下野薬師寺跡」の巻で、「(下野薬師寺後継寺院の)安国寺と龍興寺は、天和元年(1681年)から享保4年(1719年)にかけて、薬師寺の正統を争う訴訟を起こした。議論の末、天保9年(1838年)、安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護するという合意に達し、現在に至っている」と記した。

この略縁起には薬師寺の正統を争う訴訟には触れられていないが、「龍興寺」のあとに括弧書きで「下野薬師寺別院」とあり、訴訟があったことを表しているように思える。

そして、この略縁起の中に龍興寺の配置図があり、墓地の中に「鑑真和尚碑」が図示されたいた。
境内の外の一般道沿いにある墓地に向かう。

鑑真和尚碑。
鑑真の弟子たちが、師の遺徳を偲び建立したといわれている供養塔。
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碑には「鑑真大和尚」と刻まれている。
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写真はないが、側面には「天平寶字七壬寅五月五日」と刻まれている。
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鑑真和尚碑
鑑真和尚は唐代の高僧、日本律宗の開祖で天平勝宝6年(754年)に来朝。
唐招提寺や日本三戒壇(大和東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺)を建立し、日本仏教のため大きな業績を残された。
天平宝字7年(763年)76歳にて歿す。
傍らの菩提樹は、和尚の杖が成長したものといわれている。
下野市教育委員会
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鑑真和上の杖が成長した「菩提樹」。
鑑真和上は下野国まで足を運んだのであろうか。
然様なことは詮索せず、菩提樹を眺めるのであった。

龍興寺をあとにして、下野薬師寺を右手に眺めながら、次の訪問地、下野国分寺跡へと向かう。

フォト:2016年8月14日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2016-08-22 23:58 | 下野国史跡めぐり


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