人気ブログランキング | 話題のタグを見る

上総守が行く!(二代目)

kazusankm2.exblog.jp
ブログトップ
2015年 10月 23日

『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7

土橋から藤代宿に向け、旧水戸街道を走る。
土橋からの旧街道はほぼ真っ直ぐである。
JR常磐線踏切、県道208号、県道251号を横切り、しばらく走ると右手に古風な趣きの家が見えて来た。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_7352215.jpg
古風な趣きの家は、藤代宿の西端の目印、坂本呉服店である。
坂本呉服店の角を右折すると藤代宿が始まる。
坂本呉服店の角はほぼ90度に折れ曲がるという、面白い道の作りだ。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_9495377.jpg
坂本呉服店の斜め向かいに鎮座している神社は、相馬神社。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10135640.jpg
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1014172.jpg
相馬神社の由緒。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10143046.jpg
--------------------------
建立は極めて古く元享元年(1321年)6月といわれ、安政2年(1855年)火災焼失、慶応3年(1867年)に再建される。
社殿の材質は総けやき造り、屋根は銅板葺流れ造り、向拝柱に見事な竜の彫刻があり、大床下や三方の壁面脇障子全体が豊麗な彫刻で飾られている。
社殿全体の豪華さは、町内にある社殿の中でも群を抜いている。
明治40年、八坂神社・富士神社を合祀して相馬神社と称した。
元八坂神社は、藤代・宮和田両宿の総鎮守であった。
---------------------------

由緒書きの柱の更に先に見える緑色の土手は小貝川の堤である。
土手の上は小貝川サイクリングロード、幾度か走った馴染みのあるサイクリングロードである。
由緒書きにある「藤代・宮和田両宿」については後ほど述べることとしたい。

境内から藤代宿の西の入り口を眺める。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10145681.jpg
藤代宿の西端から通りを眺める。
ほぼ、一直線である。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10153067.jpg


通りを走り、藤代公民館へと向かう。
事前の調べで、本陣跡は藤代公民館になっているという。
左手に藤代公民館が見えて来た。

藤代公民館。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1022457.jpg
公民館の左手空き地に立つ「藤代本陣跡」の立て札。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10284227.jpg
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1029466.jpg
----------------------------
旧藤代町指定文化財史跡
藤代本陣跡
昭和48年11月1日指定(平成17年3月合併時指定解除)

藤代本陣は天正・文禄の頃(1573~94)この地におかれ、名主であった飯田三左右衛エ門(横瀬主膳正繁の長男で、もとの名を刑部庸氏という)の子孫が代々勤めた。
本陣は、貞治2年(1363年)、足利義詮が京都にのぼるさい、宿舎に宿札をかかげて本陣と称したのが、その始まりといわれる。
江戸時代には各宿駅におかれ、参勤交代の大名・公卿・幕臣が宿泊した。
藤代本陣は、水戸街道(陸前浜街道)藤代宿の本陣である。
建物は、昭和30年2月、町村合併による庁舎建設のため取りこわされた。
当時、木造茅葺造りの質素なものであった。
唐破風造りの玄関は本陣の威容をとどめていた。
現在、この百日紅と中央公民館脇の老松は、本陣玄関前にあったものである。
取手市教育委員会
-----------------------------

「昭和30年2月、町村合併による庁舎建設のため取りこわされた」とある。
「藤代町、昭和30年」で検索したところ、ウィキペディア「藤代町」にヒット。
-----------------------------
藤代町。
江戸時代は相馬領二万石と言われた農村地帯。水戸街道(陸前浜街道)の宿場町藤代宿を中心に栄えた。
1955年(昭和30年)2月21日 - 北相馬郡相馬町、山王村、六郷村、高須村の一部、筑波郡久賀村の一部が合併して成立。
町名の由来は藤代宿からである。
------------------------------
旧藤代宿本陣が残っていないのは残念なことだ。
昭和30年、歴史的建造物を残すよりも庁舎建設が優先された、そんな時代だったのかもしれない。
10日ほど前に旧取手宿本陣を見学したばかりでもあり、往時の藤代宿本陣の姿を想像するのであった。

本陣玄関前にあったという老松。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1046192.jpg
本陣玄関前にあったという百日紅。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10471867.jpg
小貝川の土手に上がり、本陣跡を眺める。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_10554549.jpg
小貝川サイクリングロード。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1058212.jpg
この先は文巻橋の西詰、国道6号(水戸街道)を横切り、利根川合流地点へと続く。
このまま、サイクリングロードを走って行きたい気分になりそうになるが、土手を下り、旧水戸街道探訪に戻る。

旧本陣跡の句碑。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_1135861.jpg

たんぽぽに 照る陽 曇る日 陣屋跡  雨城
雨城とある。
調べてみた。
元・茨城県俳句協会長、野竹雨城さんとあった。

公民館を出ると右手にデイリーヤマサキがあった。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_11171669.jpg
この店は記憶にある。
小貝川サイクリングロードを走っているとき、時々、昼餉を調達したことがある店だ。
そのときは、藤代の宿場町そのものにいるなんていう意識は全くなかった。
店はシャッターが降りていた。
定休日なのか、閉店したのか...。

町内案内図(メモ:左肩に赤い文字で「茨城県取手市宮和田 片町 藤代案内図」と書かれている)。
宿場町の通りの形を説明するのに丁度よいと思い、カメラに収めた。
宿場町の通りは、町内案内図の下段の、左から右に下がり、最下端から右へ上がって行く黄色い、細い線の部分である。
『旧水戸街道ポタリング/藤代宿(中)』 mt-7_f0339895_11385884.jpg
事前の調べで地図を見たとき、宿場通りが「逆への字型」になっていることに気づいた。
更に調べたところ、「逆への字型」の西側が<藤代宿>、東側が<宮和田宿>であることが分かった。
何故、「逆への字型」になっているのかと思っていたが、この町内案内図を見て分かったような気がする。
即ち、小貝川の蛇行した形(案内図の水色の線)に沿って宿場の通りが形作られていると思ってよさそうである(小貝川はよく氾濫を起こしていたというので、蛇行の形はその都度変わっていたということも想像されるが、通りの形からして蛇行の形はほぼ固定されていたと思われる)。
藤代宿の西端、坂本呉服店があった角も、この町内案内図で、ほぼ90度で折れ曲がっていることが確認できる。

資料によると、「逆への字型」の左側が<藤代宿>、右側が<宮和田宿>となっている。
藤代宿は<藤代宿>と<宮和田宿>の2宿でひとつの宿駅の機能を持っていたのである。
更に宿場の通りを進む。

フォト:2015年10月18日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2015-10-23 21:01 | 旧水戸街道ポタリング


<< 『旧水戸街道ポタリング/藤代宿...      『旧水戸街道ポタリング/藤代宿... >>