上総守が行く!(二代目)

kazusankm2.exblog.jp
ブログトップ
2018年 03月 05日

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅳ)』 mk-9

(本ブログは兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」掲載分から転載、再編集したものです)

3月4日(日曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

府中市内の古墳をめぐり、多摩川左岸サイクリングロードを走り、多摩川台公園に到着。
多摩川台公園内の、亀甲山古墳、蓬莱山古墳、そして、これら2基の間に位置する8基の円墳が連なった多摩川台古墳群をめぐった。
更に、多摩川台公園内にある古墳展示室の展示物を見学。

多摩川台公園古墳展示室では、先ず、埴輪の形態と葬送の儀式についてベンキョーした。
続いて、「大田区の古墳」として田園調布古墳群に関わる展示のコーナーで、この日、探訪した古墳を中心に展示を見ながら「現場+机上」でベンキョーした。
続いて、「荏原(台)古墳群の分布」のコーナーで、大田区田園調布周辺に広がる古墳群(田園調布古墳群)と世田谷区野毛周辺に広がる古墳群(野毛古墳群)の総称である荏原(台)古墳群の分布をベンキョーした。
そして、「古墳の造り方」と「いろいろな古墳とその大きさ」のコーナーへ。

「古墳の造り方」。
a0289546_00003567.jpg

「古墳の造り方」。
右から左へ目を通していく。
f0339895_06250919.jpg

---------------------------------------
古墳の造り方
前方後円墳の築造家庭を紹介します。
大田区で最も近い例は観音塚古墳です。
築造地 関東地方
時期 6世紀
全長 50~60m
内部施設 横穴式石室
---------------------------------------


「古墳を設計し、地割線を引く」。
f0339895_06254449.jpg

---------------------------------------
「古墳を設計し、地割線を引く」

上段/古墳築造のときに利用する仮家。

右上/二人の人物図。
古墳を造るための計画全体のことを考え、働く人々に指示を出す人々。
首長一族。

中央/働く人物図。
・先の尖った棒で地割線をひく
・設計図で確認しながら指示を出す
・中心杭、メジャーとなる縄
・後円部の地割線と中心杭にできる朝夕の影を利用して東西の方位を直線で示す

左下/二人の人物図。
埋葬施設・副葬品・棺・埴輪・妻子用具など、古墳に付属する施設や必要な道具を準備したり、作ったりする人々。
---------------------------------------


「墳丘を盛り上げ、横穴式石室を組み立てる」。
f0339895_06263058.jpg

-----------------------------------------
「墳丘を盛り上げ、横穴式石室を組み立てる」

中央/作業をする人々。
・石室石組裏込用年度を採掘する
・石材を運ぶ
・石材の整形加工
・根石の上に壁石を組み上げる
・石組の裏込をする
・擂鉢状の傾斜を利用して土を流し込むように重ねていく
・モッコに土を入れ、天秤棒で担ぎ、盛土を運ぶ
・墳丘面を叩き固める
・周溝を掘る
・墳裾(古墳の裾)の位置を定めながら盛土をする
・(周溝を)平らにならす
・周溝に土橋を残す

左上/三人の人物図。
力仕事をする人々。
古墳の土を盛り上げたり、埋葬施設の石材や棺・埴輪などを運び、設置する。
-----------------------------------------

「石室の天井石をのせる」。
f0339895_06265957.jpg

----------------------------------
「石室の天井石をのせる」

中央/作業をする人々。
・丸太のコロを敷き、天井石を所定の位置まで移動させる
・天井石の運搬路
 石室天井レベルまで運び上げられるように緩やかな坂を作る
・修羅や梃子などを利用して天井石を運ぶ

左上/二人の人物図。
高い専門知識をもち、古墳を造るために必要な技術を指導する人々。
首長一族に仕え、仕事を手伝い、助ける。
----------------------------------

「埴輪を設置し、石室を閉塞する」。
f0339895_06271582.jpg

-----------------------------------------
「埴輪を設置し、石室を閉塞する」

中央/作業をする人々。
(後円部)
・横穴敷き入口を閉じるための扉石、閉塞石、封土
・石室に棺を運び入れ、石室入口を閉める
(前方部)
・杭と縄で埴輪を並べる位置を示す
・埴輪製作所から埴輪を運ぶ
・埴輪を墳丘に運ぶ
・埴輪を並べる
-----------------------------------------

(参考)
「古墳の造り方」の例として挙げられている大田区/観音塚古墳について調べてみた。
--------------------------------------
観音塚古墳(西岡第36号古墳)
所在地:東京都大田区田園調布4-9
蓬莱山古墳の北西数百メートルのところに位置。
1947年の発掘調査で多数の副葬品や埴輪が出土。
--------------------------------------

この古墳は、「西岡第36号古墳」とある通り、西岡秀雄氏が1930年代に行った荏原(台)古墳群の分布調査時には現存していた。
1947年には発掘調査もされており、現存していた。
しかし、現在は宅地化され、墳丘は消滅しているという。
残念!


「いろいろな古墳とその大きさ」。
a0289546_23583355.jpg

------------------------------------
4世紀
古墳が各地で造られるようになる。
古墳時代が始まった。
日本だけしか見られない形といわれる前方後円墳も現れる。
最も古い前方後円墳は、前方部の形が三味線の撥形をしていたり、全体が柄鏡形だったりする。
また、後円部に比べて前方部が低く造られているという特徴がある。
------------------------------------
5世紀
巨大な前方後円墳が造られる。
応神天皇陵(全長420m)や仁徳天皇陵(全長486m)は、世界で最も大きな築造物のひとつに数えられる。
この頃の前方後円墳は、前方部の先端が広がり、高さもだんだん高くなってくる。
前方後円墳以外の変わった古墳も増えてくる。
-------------------------------------
6世紀
前方後円墳の前方部の幅や高さが、後円部の直径や高さより大きくなってしまう。
同じ前方後円墳でも、時期によって形に変化があることがわかる。
各地に、多摩川台古墳群のような、小さな円墳が集まった群集墳が見られるようになる。
--------------------------------------
7世紀
古墳が造られなくなってくる。
その代わり、各地に寺院が建立されるようになる。
日本への仏教伝来は538年、または552年とされる。
--------------------------------------


4世紀~7世紀、各世紀のパネルをアップで。
4世紀。
f0339895_00291786.jpg

---------------------------------------------
上段、右/奈良県 箸墓(大市墓)古墳・・・前方後円墳
上段、左/奈良県 桜井茶臼山古墳・・・同上
下段、右/埼玉県 五領遺跡 集落址
下段、央/奈良県 櫛山古墳・・・双方中円墳
下段、左/香川県 石清尾山猫塚古墳・・・同上
----------------------------------------------

双方中円墳。
興味深い古墳の形状である。
櫛山古墳、石清尾山猫塚古墳は共に双方中円墳であるが、形は少し異にしている。
石清尾山猫塚古墳は、シャモジの柄を両方に出していうような形状で、二つの突出部はほぼ均等な大きさである。
一方、櫛山古墳は、普通の前方後円部にもう一つ、短い突出部を付けたような形状となっている。

5世紀。
f0339895_00472017.jpg
----------------------------------------------
上段、右から/
大阪府 仲津姫命陵(仲津山)古墳・・・前方後円墳
大阪府 応神天皇陵(誉田御廟山)古墳・・・同上
大阪府 仁徳天皇陵(大山)古墳・・・同上
大阪府 にさんざい古墳・・・同上
下段、右から/
東京都 亀甲山古墳・・・同上
栃木県 上侍塚古墳・・・前方後方墳
奈良県 乙女山古墳・・・帆立貝型古墳
----------------------------------------------

前方後方墳。
大いに興味のある形状の古墳である。
前方後方墳の「栃木県 上侍塚古墳」をアップで。
a0289546_00192345.jpg

前方後方墳である上侍塚古墳は、以前から是非訪ねてみたいと思っていた古墳である。
栃木県大田原市湯津上、JR那須塩原駅の南東約15kmの、那珂川右岸の段丘上に位置する。
上侍塚古墳から少し離れたところに、同じく、前方後方墳である下侍塚古墳もある。
この地域には、国宝(古文書)の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)もある。
那須国造碑は、多胡碑(群馬県高崎市吉井町)、多賀城碑(宮城県多賀城市大字市川)と共に、日本三古碑のひとつに数えられている碑である。
水戸黄門でお馴染みの徳川光圀は、那須国造碑を調査し、保存顕彰のために碑堂を建立。
同時に、碑の主を調べるべく、上・下侍塚古墳の発掘調査を行った。
この調査は日本で最初の学術的な発掘調査といわれている。

帆立貝型古墳についても興味があるので、ひとこと。
帆立貝型古墳の事例として奈良県の乙女山古墳が挙げられているが、ここは東京都の古墳資料館であり、且つ、日本有数の規模を誇る帆立貝型古墳である野毛大塚古墳が世田谷区に存在することでもあり、野毛大塚古墳を挙げてもよかったのではないかと思うのである。
因みに、筆者の好きな帆立貝型古墳は、群馬県太田市の塚廻り古墳群4号墳である。

6世紀。
f0339895_01013919.jpg

----------------------------------------------
上段、右/千葉県 稲荷山古墳・・・前方後円墳
上段、左/埼玉県 山王塚古墳・・・上円下方墳
下段、右/東京都 船田遺跡 集落址
下段、央/大阪府 金山古墳・・・双円墳
下段、左/群馬県 芦田貝戸遺跡 水田・畑址
-----------------------------------------------

千葉県/稲荷山古墳(前方後円墳)について。
千葉県南部、富津市に分布する内裏塚古墳群に属する古墳のひとつ。
内裏塚古墳群は、古墳時代中期~終末期に築造された前方後円墳や円墳、方墳など50基が確認されており、南関東最大の前方後円墳である内裏塚古墳(全長144m)をはじめ、三条塚古墳(全長122m)、九条塚古墳(103m)、稲荷山古墳(106m)、上野塚古墳(全長44.5m)など25基が現存する。

因みに、日本全国の古墳の数は約16万基といわれており、或る資料によれば、都道府県別ランキングのベスト5は、①兵庫県:18,841基、 ②鳥取県:13,459基、③ 京都府:13,089基、 ④千葉県:12,750基、 ⑤岡山県:11,726基となっており、意外にも(といっては変かもしれないが)、千葉県は古墳が多い県なのである。
なお、南関東最大の前方後円墳はこの千葉県富津市の内裏塚古墳(全長144m)であるが、関東最大の前方後円墳は群馬県太田市の天神山古墳(全長210m)である。

上円下方墳。
この日のポタリングは、府中市内の上円下方墳/武蔵府中熊野神社古墳の探訪から始まった。
このパネルでは、上円下方墳の事例として埼玉県川越市の山王塚古墳が挙げられているが、武蔵府中熊野神社古墳が挙げられていればもっと嬉しかったということとなる。
第2話で全国の上円下方墳6基を整理・列挙したが、ここでもう一度、整理しておきたい。
・野地久保古墳(福島市白川市)
・清水柳下北1号墳(静岡県沼津市)
・石のカラト古墳(奈良県奈良市・京都府木津市)
・武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市)
・山王塚古墳(埼玉県川越市)
・天文台構内古墳(東京都三鷹市)

7世紀。
f0339895_01141889.jpg

--------------------------------------------
中段/奈良県 舒明天皇陵(段ノ塚)古墳・・・八角墳(上八角下方墳)
下段/千葉県 龍角寺岩屋古墳・・・方墳
上段/奈良県 法隆寺
--------------------------------------------

この7世紀のパネルに挙げられている「奈良県 舒明天皇陵(段ノ塚)古墳」を調べてみると、この古墳は八角墳(上八角下方墳)である。
八角墳は古墳時代の終末期(7世紀中葉〜8世紀)につくられた正八角形の古墳。
今後の古墳めぐりの参考として、八角墳を列挙しておきたい。
<被葬者が天皇もしくはその近親者とされる古墳>
・段ノ塚古墳(舒明天皇陵)奈良県桜井市
・御廟野古墳(天智天皇陵)京都府京都市
・野口王墓古墳(天武持統合葬陵)奈良県高市郡明日香村
・中尾山古墳 奈良県明日香村
・束明神古墳 奈良県高市郡高取町
・岩屋山古墳 奈良県明日香村 
・牽牛子塚古墳 奈良県明日香村
<被葬者が地方の首長墓とされる古墳>
・稲荷塚古墳 東京都多摩市百草 ※7世紀前半
・三津屋古墳 群馬県北群馬郡吉岡町 ※7世紀前半
・半経塚古墳 山梨県笛吹市 ※7世紀前半
・伊勢塚古墳 群馬県藤岡市 ※6世紀前半
・中山荘園古墳 兵庫県宝塚市
<八角墳である可能性が指摘されている古墳>
尾市1号墳 広島県福山市新市町
神保一本杉古墳  群馬県高崎市吉井町
武井古墳 (廃寺)  群馬県桐生市 ※火葬墳

更に、この7世紀のパネルには「千葉県 龍角寺岩屋古墳」が挙げられている。
龍角寺岩屋古墳(方墳)は、千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群に属する古墳(114基ある中の105号墳)である。
方墳としては全国最大級の古墳(一辺78m、高さ132m)で、5世紀の舛山古墳(奈良県橿原市、一辺90m、高さ?)に次ぎ、全国第2位の規模となっている。
龍角寺古墳群の近くには、関東最古の古代寺院とされる龍角寺もある。
龍角寺古墳群と龍角寺はしばしばポタリングのコースに組み込んでいるお気に入りのスポットである。

7世紀のパネルに「7世紀 古墳が造られなくなってくる。その代わり、各地に寺院が建立されるようになる。日本への仏教伝来は538年、または552年とされる」とある。
この文章を読みながら思い出すこと、それは、そもそも、古墳探訪を始めたきっかけは、数年前に武蔵国分寺跡・国分尼寺跡を訪ねたことである。
以来、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社をワン・セットにして訪ねることをテーマに掲げ、各地をめぐながら、その過程で、国分寺以前の地方豪族の氏寺である古代寺院、更に次代を遡り、古墳探訪をテーマに掲げることとなったのである。

9話に亘って綴った今回の武蔵国史跡めぐりもそろそろ完結としたい。
府中市内の武蔵府中熊野神社古墳、御嶽塚、高倉塚古墳の3基の見学、多摩川CRを経由しての多摩川台公園内の田園調布古墳群10基の見学。
古墳のみならず、府中崖線(ハケ)や多摩川左岸台地の地形と古墳の関係を jitensh で走りながら、或いは、現地で、この目で確認することが出来た。

東急・多摩川駅から輪行で帰途についた。
走行距離は、サイクルコンピュータ表示で31.31km のぞろ目であった。

フォト:2018年3月4日

(完)





[PR]

# by kazusanokami-2nd | 2018-03-05 23:59 | 武蔵国史跡めぐり | Comments(0)
2018年 03月 05日

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅲ)』 mk-8

(本ブログは兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」掲載分から転載、再編集したものです)

3月4日(日曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

府中市内の古墳をめぐり、多摩川左岸サイクリングロードを走り、多摩川台公園に到着。
多摩川台公園内の、亀甲山古墳、蓬莱山古墳、そして、これら2基の間に位置する8基の円墳が連なった多摩川台古墳群をめぐった。
更に、多摩川台公園内にある古墳展示室の展示物を見学。

多摩川台公園古墳展示室では、先ず、埴輪の形態と葬送の儀式についてベンキョーした。
続いて、「大田区の古墳」として田園調布古墳群に関わる展示のコーナーで、この日、探訪した古墳を中心に展示を見ながら「現場+机上」でベンキョーした。

続いて、田園調布古墳群と野毛古墳群で構成される「荏原(台)古墳群」のコーナーと「武蔵国の乱」のコーナーへ。

荏原台古墳群。
荏原台古墳群とは、大田区田園調布周辺に広がる古墳群(田園調布古墳群)と世田谷区野毛周辺に広がる古墳群(野毛古墳群)の総称である。
多摩川台公園古墳展示室は大田区立の施設である。
地方自治体によっては、自分の行政区内のことしか展示しない偏狭な(???)自治体もあるが、現在の行政区分と古墳時代のクニ・ムラの区分は全く無関係であり、大田区は、自区内の田園調布古墳群のみならず、隣の世田谷区の野毛古墳群も含め、広い心(???)で、荏原台古墳群について展示している。
前置きが長くなってしまった。
本論に移ることとしたい。

「荏原(台)古墳群の成立ち」。
a0289546_00140443.jpg

---------------------------------------
多摩川下流沿岸、現在の大田区田園調布・世田谷区尾山台・等々力・野毛、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、これらは「荏原(台)古墳群」と呼ばれている。
これは、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」と、尾山台から野毛にかけての「野毛古墳群」とに二分して考えることもある。
この一帯は、多摩川の豊富な水資源と広い平地を利用した農耕を地盤とする強力な首長により治められていたと考えられる。
荏原(台)古墳群は、その代々の首長と一族の墓地だったのであろう。

4世紀~5世紀
古墳の発生期にあたる。
田園調布古墳群での大形前方後円墳が築造される。

5世紀
野毛古墳群で大形円墳が築造される。

6世紀
田園調布古墳群の中で、中・小形前方後円墳が築造される。

6世紀~7世紀前半
古墳の終末期にあたる。
小形円墳が多数築造される。
---------------------------------------


「荏原(台)古墳群の分布」。
a0289546_00455451.jpg

分布パネルの下端に古墳の名称が列挙されており、名称の左にある赤いボタンを押すと上面の航空写真上に古墳の位置を示すランプが点灯する仕掛けとなっている。
a0289546_00463359.jpg

左から;
1列目
一本松古墳、扇塚古墳、亀甲山古墳、観音塚古墳、狐塚古墳、スクモ塚古墳、浅間様古墳、浅間神社古墳、大日塚古墳、多摩川台古墳群第1+2号墳、多摩川台古墳第1号墳(※筆者注1)
2列目
多摩川台古墳群第3号墳、多摩川台古墳群第4号墳、多摩川台古墳群第5号墳、多摩川台古墳群第6号墳、多摩川台古墳群第7号墳、多摩川台古墳群第8号墳、マスキング(※筆者注2)、田園調布埴輪製作址、天慶塚古墳、天神山古墳、西岡第5号古墳、西岡第7号古墳、西岡第9号古墳、西岡第13号古墳
3列目
西岡第16号古墳~西岡24号古墳、西岡26号古墳~西岡第30号古墳
4列目
西岡第31号古墳~西岡第33号古墳、西岡35号古墳、西岡47号古墳、西岡49号古墳、西岡50号古墳~西岡52号古墳、八幡塚古墳、蓬莱山古墳、御岳山古墳、古墳展示室(現在位置)
(五十音順)

※筆者注1:
「多摩川台古墳第1号墳」は原文通り。
但し、その前に「多摩川台古墳群第1+2号墳」とあり、重複しているのではないかと思う次第。
因みに、前7話で綴った通り、「第1+2号墳」は、元は前方後円墳で、後に円墳2基に築造し直されたものである。

※筆者注2:
「マスキング」されたところには「多摩川台古墳群第9号墳」と書かれていたと思われる。
前7話で綴った通り、多摩川台古墳群は円墳9基と考えられていたが、調査の結果、実際は円墳8基であったため、第9号古墳は抹消されたのである。

荏原(台)古墳群の中には「西岡第〇〇号古墳」のように「西岡」の名を冠した古墳が多数ある。
これらは、1930年代、西岡秀雄氏なる人物により荏原台古墳群の分布調査を行ったときに名付けられたものである。

西岡秀雄氏のプロフィールを紐解いてみた。
1913 年生まれ、1937年、慶応義塾大学文学部史学科卒業、1964年、教授就任、1979年、退官、大田区立郷土博物館に就任、多数の著書がある。2011年没。
西岡氏が若い頃に荏原(台)古墳群の調査がなされたことが分かる。

第7話で触れた通り、蓬莱山古墳から出土した四獣鏡は慶応義塾大学民族学考古学研究室所蔵となっており、また、後述の荏原(台)古墳群 西岡第28号古墳から出土した六鈴鏡も慶応義塾大学所蔵となっており、これは慶応義塾大学の西岡氏が調査発掘したからであろう。

また、同じく第7話で触れたと通り、蓬莱山古墳は「別名 西岡第37号墳」、亀甲山古墳は「別名 西岡第46号古墳」、多摩川台古墳群第1・2号墳は「別名 後藤第1・2号墳、西岡第45号墳(第1号墳 西岡第45号墳)、多摩川台古墳群第3号墳は「別名 後藤第3号墳、西岡第44号墳」、多摩川台古墳群第4号墳は「別名 後藤第4号墳、西岡第43号墳」、多摩川台古墳群第5号墳は「別名 後藤第5号墳、西岡第42号墳」、多摩川台古墳群第6号墳は「別名 後藤第6号墳、西岡第41号墳」、多摩川台古墳群第7号墳は「別名 後藤第7号墳、西岡第40号墳」(※多摩川台古墳群第9号墳(新8号墳)は別名の記載なし)となっていたが、第1・2号墳は、西岡氏の調査後、後藤氏が調査し、前夫後円墳1基が円墳2基に築造し直されたことなどを物語っている。

田園調布埴輪製作址。
分布パネルには、古墳以外に「田園調布埴輪製作址」も図示されており、参考資料として、田園調布埴輪製作址の展示パネルと再現模型をここに掲載しておこう。
f0339895_09582420.jpg

--------------------------------
埴輪の工房、土師器の工房、窯址などからなり、埴輪生産を総合的に考えることのできる全国的にも数少ない貴重な遺跡。
簡単な屋根を被せただけの竪穴の中で、家族的少人数によって、付近から採集した粘土を使い、1回に7、8個の埴輪を作り、登窯で焼いていたのではないかと考えられている。
--------------------------------


埴輪製作址。
f0339895_15392617.jpg

埴輪窯模式図。
f0339895_15413016.jpg

埴輪製作所実測図。
f0339895_15482401.jpg

埴輪製作所復元模型。
f0339895_09592436.jpg

次は「武蔵国造の乱」のコーナーへ。
f0339895_15592359.jpg

下段中央の「武蔵国造の乱」に目を通す。
-----------------------------------------
武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)
「日本書紀」巻十八 安閑天皇元年の条
武蔵国では、笠原直使主(かさはらのおみ)とその同族の小杵(おぎ)が国造(国を治める豪族)の地位を争っており、年を経ても決めがたい状態であった。
小杵の性格はけわしく逆らうことがあり、心は傲慢で素直さがなかった。
そして、ひそかに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)に援助を求め、使主を殺そうとした。
このことを知った使主は、逃げて京へいたり、そのありさまを訴え出た。
朝廷は裁断を下し、使主を国造とし、小杵を誅した。
国造使主はかしこまり喜んで、横渟(よこね、多摩横山と埼玉県横見郡の2説がある)・橘花(たちばな、川崎市と横浜市港北区の一部)・多氷(たひ、多末の書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)・倉樔(くらす、横浜市南部)の4ヶ所の屯倉(朝廷の直轄地)を朝廷(大和政権)に献上した。
-----------------------------------------


上段、挿絵付きの文章を右から左へ目を通す。
f0339895_16281549.jpg

---------------------------------------------
(その1)
小杵と使主の対立
時は、安閑天皇元年(534)、6世紀初めの頃のことである。
武蔵国では首長になる権利を幾つかの勢力の間で持ち回りしながら、代々の首長が引き継いでいた。
しかし、引き継ぎをめぐり、南武蔵の小杵と北武蔵の使主の対立が起きた。

(その2)
同盟を結ぶ小杵と小熊
ずるかしこく、心が傲慢な小杵は、すでに上毛野国との関係を強めていた。
そして、ひそかに上毛野君小熊に援助を求め、使主を倒そうと目論んだ。

(その3)
使主、大和政権に助けを求める
しかし、これに気付いた使主は自ら大和政権の朝廷に出向き、助けを願い出た。
こうして単なる武蔵国の内紛から、大和政権と東国の強国上毛野国との対立という大きな争いへと発展することとなる。

笠原直使主の本拠地は、埼玉県鴻巣市笠原と考えられ、この地は埼玉古墳群の南に位置している。
使主の墓はこの古墳群の中の二子山古墳群ではないかという説もある。

(その4)
使主の勝利と屯倉の献上
国家統一を成し遂げようとしていた大和政権は、小杵を討ち倒し、使主を国造とした。
喜んだ使主は、4ヶ所を屯倉として大和政権に献上、小杵の勢力に大きな打撃を与えた。
---------------------------------------------

上段、下段とも内容は同じながらが、上段の解説の中に「笠原直使主の本拠地は、埼玉県鴻巣市笠原と考えられ、この地は埼玉古墳群の南に位置している。使主の墓はこの古墳群の中の二子山古墳群ではないかという説もある」とあり、これは誠に興味深い記述である。
というのは、以前、行田市の埼玉古墳群を訪ねたことがあり、二子山古墳もこの目で見たことがある。
しかし、そのときはまだ各地の古墳探訪をテーマに掲げる以前のことであったので、古墳マインドを持って訪ねたものではなかった。
この解説を読んだことでもあり、新たな気持ちで、今一度、埼玉古墳群を訪ねたいと思うのであった。

下段、右/資料「上毛野国と荏原(台)古墳群を結び付ける副葬品」。
f0339895_17544943.jpg

---------------------------------------
滑石製模造品
滑石製模造品は、武器や生活用具をまねて滑石を材料に作られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。
荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは、上毛野(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上毛野の以外の関東ではみられない飲食用具の模造品を含まれtいる。
そのため、上毛野で作られ、南武蔵に持ち込まれたのであはないかと考えられている。

甲冑
野毛大塚古墳から武蔵では最古とされる甲冑が出土している。
これも上毛野の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。

鈴鏡
6世紀前半を盛りに、上毛野を中心に流行したと考えられる鈴鏡が荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号古墳でも出土している。
これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとたえられるのではないだろうか。

こららの資料は、野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が、当時先進的であった上毛野国の政治勢力下に入ったことを暗示している。
その結果、①鈴鏡を用いた祭礼(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり、②武蔵国造の継承権の争いに上毛野君が介入した事件が起こったと考えられる。

右/荏原(台)古墳群、左/上毛野国からの出土品比較写真

滑石製模造品
荏原(台)古墳群
石製坩(かん)、石製槽(ふね)、石製履(くつ)、石製槽形品、石製刀子、石製勾玉
(世田谷区 野毛大塚古墳出土、写真提供 東京国立博物館)
上毛野国
石製杵、石製坩、石製盤、石製履、石製案(あん)、石製刀子、石製勾玉
(群馬県藤岡市 白石稲荷山古墳出土、写真提供 東京国立博物館)
※坩(かん):壷
※槽(ふね):水、酒などを入れる箱型の器
※石製案(あん):物などを載せる台、机

甲冑
荏原(台)古墳群 短甲復元図(世田谷区 御岳山古墳出土)
上毛野国 短甲(群馬県太田市 鶴山古墳出土、写真提供 群馬県立歴史博物館)

鈴鏡
荏原(台)古墳群 六鈴鏡(大田区 西岡第28号古墳出土、慶応義塾大学所蔵)
上毛野国 五鈴鏡(群馬県高崎市 観音塚古墳出土、写真提供 高崎市教育委員会)
---------------------------------------

この出土品の資料の中に出て来る古墳について、登場順に触れておきたい。
<野毛大塚古墳>
世田谷区/野毛古墳群に属する古墳である。
帆立貝型古墳として有名である。
いずれ、探訪せねばならない古墳と思っている。
<白石稲荷山古墳>
各地の古墳探訪をテーマに掲げて以来、群馬県内の古墳にはよく通っている。
しかし、白石稲荷山古墳はまだ訪ねたことがない。
で、調べてみたところ、「白石稲荷山古墳/藤岡市白石、5世紀前半につくられた、白石稲荷山古墳と陪塚の十二天塚古墳・十二天塚北古墳は、一括して国の史跡に指定されている」とあり、是非、訪ねてみたいと思うのであった。
<御岳山古墳>
この古墳も世田谷区/野毛古墳群に属する古墳である。
いずれ、探訪せねばならない古墳と思っている。
<西岡第28号古墳>
田園調布古墳群に属する古墳で、その名の通り、西岡秀雄氏の調査で大田区田園調布5丁目に存在していたとのことが把握されているが、現在は道路もしくは住宅建設のため切り崩され、痕跡はないとのことである。
<鶴山古墳>
太田市烏山上町にある前方後円墳。
太田市内の古墳も幾つか訪ねているが、この古墳はまだ訪ねきれていない。
是非、訪ねてみたい。

下段左/資料「小杵、使主、小熊の勢力圏と屯倉の位置」。
f0339895_17562604.jpg
------------------------------------
小杵、使主、小熊の勢力圏と屯倉の位置
使主が大和政権に献上した屯倉のうち、「橘花(たちばな)」「多氷(たひ)」「倉樔(くらす)」の三ヶ所は小杵の本拠地と考えられる。
「横渟(よこね)」は、多摩横山説なら小杵の本拠地にあたり、埼玉県横見郡説であれば南武蔵と北武蔵のほぼ中間に設置されたことになり、両地域を見張る軍事的・政治的役割を果たす屯倉と考えられる。
なお、『安閑紀』の最後に屯倉設置の記事があり、その中に上毛野国緑野屯倉の名が出てくる。
「緑野」は、この乱に加わった上毛野国に対する懲罰として、その領地に設置され、大和政権の国家統一への戦略拠点として利用されたと考えられる。

(図示)
橙色:小杵の勢力範囲の中の主要古墳群・・・荏原(台)古墳群、川崎、横浜、多摩
黄色:小熊の勢力範囲の中の主要古墳群・・・埼玉古墳群、笠原
水色:使主の勢力範囲の中の主要古墳群・・・太田、伊勢崎、前橋、高崎、白石
四角印:屯倉

(筆者注)
※横渟(よこね):多摩横山もしくは埼玉県横見郡
※橘花(たちばな):川崎市と横浜市港北区の一部
※多氷(たひ):多末の書き誤りといわれ、東京都多摩地域
※倉樔(くらす):横浜市南部)
------------------------------------

誠に興味深い解説である。
使主は旧・東山道、旧・東海道のいずれを通って大和政権の朝廷に向かったのであろう。
当時は旧・東山道がメインの道であったと理解しており、これを通って行ったのではないかと想像するのであるが、旧・東山道が通る上毛野国は小杵が手を結んだ小熊が治める地であり、小熊の監視を掻い潜ってのことであろうとも想像するのであった。

上毛野国に対する懲罰として屯倉が設置された「緑野」は、上野三碑をめぐった際、多胡碑に関わる説明書きの中で、片岡郡、緑野郡、甘楽郡、多胡郡の位置が図示された資料を見たことがあり、緑野の屯倉の様子が目に浮かぶのであった。

続いて、「古墳の造り方」、「いろいろな古墳と大きさ」のコーナーへ。

フォト:2018年3月4日

(つづく)






[PR]

# by kazusanokami-2nd | 2018-03-05 23:58 | 武蔵国史跡めぐり | Comments(0)
2018年 03月 05日

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅱ)』 mk-7

(本ブログは兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」掲載分から転載、再編集したものです)

3月4日(日曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

府中市内の古墳をめぐり、多摩川左岸サイクリングロードを走り、多摩川台公園に到着。
多摩川台公園内の、亀甲山古墳、蓬莱山古墳、そして、これら2基の間に位置する8基の円墳が連なった多摩川台古墳群をめぐった。
更に、多摩川台公園内にある古墳展示室の展示物を見学。

多摩川台公園古墳展示室。
先ず、埴輪の形態と葬送の儀式についてベンキョーした。
続いて、田園調布古墳群に関わる展示のコーナーへ。

展示室入り口は墳丘を模した設え。
a0289546_07044726.jpg

横穴式石室を模した展示室への入り口。
a0289546_07063636.jpg
石室内に設けられた数々の展示。

大田区の古墳。
a0289546_07091825.jpg
-------------------------------------------
大田区の古墳
多摩川下流一帯は、水資源と肥沃な土地に恵まれ、弥生時代以来、豊かな農耕生産に支えられて発展した。
その中から有力な首長が誕生し、彼らのシンボルとして巨大な墓「古墳」が造られた。
大田区田園調布から世田谷区野毛に至る、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、数多くの古墳が分布し、これらは荏原(台)古墳群と呼ばれている。
ここでは、その古墳群のうち、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」を造られた順に紹介する。
-------------------------------------------

a0289546_07175098.jpg
a0289546_07180995.jpg

壁面には、田園調布古墳群の個々の古墳について、出土品やパネルで詳細な解説がなされている。
そのうち、この日、めぐった蓬莱山古墳・亀甲山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を中心に見学。

f0339895_12401605.jpg

蓬莱山古墳。
f0339895_11481072.jpg

-----------------------------------------------
田園調布4丁目4番
蓬莱山古墳
多摩川下流域で最大、最古の前方後円墳。
南武蔵でも後の荏原郡に当たる地域を治めた首長の墓ではないかと考えらっる。
四獣鏡や紡錘車形碧玉製品の出土が、この首長の強い政治力を物語っている。

別名 西岡第37号墳、蓬莱塚、将軍塚
墳形 前方後円墳
規模 
全長約100m
後円部径約52m、高さ約10m
前方部幅約32m、高さ約7.5m
埋葬施設 粘土槨
出土品 
倣製四獣鏡1、紡錘車形碧玉製品1、勾玉4、
管玉67、丸玉173、小玉391、大刀10、
槍(形鉄器)2、刀子1
----------------------------------------------


測量図。
後円部は大きく削られている。
削り取られた部分は宅地となっていたことを、先ほど、現場の検分で、この目で見た。

f0339895_12064865.jpg

粘土層の復元図。
f0339895_11540525.jpg

上段、左から/直刀、直刀、直刀
中段、上、左から/管玉、管玉
中段、央、左から/四獣鏡、紡錘車、木棺
中段、下、左から/勾玉、勾玉、勾玉、小玉、丸玉、直刀

中央に置かれた箱は何かと覗いてみた。
見事に再現された被葬者の姿であった。

四獣鏡。
f0339895_12231250.jpg

--------------------------------------------
四獣鏡
蓬莱山古墳
原資料所蔵 
慶応義塾大学民族学考古学研究室

中国製獣帯鏡をまねて作った倣製鏡(日本製の鏡)で「獣形鏡」とも呼ばれ、鏡面の裏に獣の姿が簡略化され、描かれている。
4世紀代を中心に製作され、東日本では発生期の古墳から出土する。
副葬された鏡は、実用品的役割より宝器として重要な意味を持つと考えられている。
---------------------------------------------


紡錘車形碧玉製品。
f0339895_12254261.jpg

--------------------------------------------
紡錘車形碧玉製品
蓬莱山古墳
原資料所蔵 
大田区立郷土博物館

紡錘車は、糸を紡ぐために使われる道具だが、これは形が似ているだけで、宝器として扱われていたと考えられる。
その使用方法は、①玉杖(権威を誇示するために用いる杖状の道具)の部品、②単独でペンダントのよな装身具などが想定される。
---------------------------------------------


直刀、刀子、玉類。
f0339895_12362940.jpg


亀甲山古墳。
f0339895_12423797.jpg

--------------------------------------------
亀甲山古墳(かめのこやまこふん)
横から見た墳形がカメの姿に似た山に見えたため古くは亀塚・亀塚山・亀ノ甲山・亀山とよばれていた。
国史跡として保存され、その内容はよくわからないが、墳形の特徴や埴輪・葺石を持たないことなどから、蓬莱山古墳の次の世代の首長の墓と考えられている。

別名 西岡第46号古墳
墳形 前方後円墳
規模
全長径107.25m
後円部径66m、高さ約10m
前方部幅49.5m、高さ約7.5m
---------------------------------------------

測量図。
f0339895_12463575.jpg

多摩川台古墳群/円墳8基。
f0339895_01173745.jpg
f0339895_01204813.jpg

多摩川台古墳群(円墳8基)の模型をアップで。
南から北へ1号墳から8号墳が連なっている。
最下端(南)の前方後円墳は後に円墳2基に築造し直され、1号墳、2号墳となっている(詳細は後述)。
最上端(北)の円墳は「9号墳」となっているが、のちの「新8号墳」である(詳細は後述)。
f0339895_09361561.jpg

6世紀中頃・7世紀前半。
f0339895_01245421.jpg

----------------------------------------
所在地 田園調布1丁目 多摩川台公園内
多摩川台古墳群
蓬莱山古墳と南の亀甲山古墳の間に挟まれて位置する9基の円墳は、古墳時代後期に小形の古墳が密集してつくられる群集墳に相当すると考えられる。
昭和62年以来の調査によりその墳形の見直しがなされ、第8号墳は古墳でないことが判った。
多摩川下流では、この古墳群が最終末の時期に当たり、これ以降、古墳は造られなくなる。
-----------------------------------------
所在地 田園調布1丁目 多摩川台公園内
多摩川台古墳群第1・2号墳
平成元年の範囲確認調査で、6世紀中頃の第1号墳を後円部、第2号分を前方部とする前方後円墳が造られ、7世紀後半に後円部(第1号墳)を改造して円墳が造られたことが判った。
このような例は大変珍しい。
なお、昭和33年の発掘で出土した横穴式石室は、後で改造して造った円墳の埋葬施設ということになる。

第1+2号墳
別名 後藤第1・2号墳、西岡第45号墳
墳形 前方後円墳
規模 全長38m、高さ2m
埋葬施設 不明
出土品 円筒形埴輪、須恵器

第1号墳
別名 後藤第1号墳、西岡第45号墳
墳形 円墳
規模 径38m、高さ2m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 鉄鏃
-----------------------------------------

第1+2号墳、測量図。
右(南側)/後円部→円墳(1号墳)に改造。
左(北側)/前方部→円墳(2号墳)に改造。
f0339895_06250448.jpg

7世紀初。
f0339895_01273727.jpg
-----------------------------------------
所在地 田園調布1丁目 多摩川台公園内
多摩川台古墳群第3・4号墳
範囲確認の際、両古墳の間に周溝が見つかり、各々独立する円墳であることが判った。
また、埴輪が出土し、第1・2号墳(前方後円墳)と共に、多摩川台古墳群の中で1グループを形成するものと考えられる。

第3号墳
別名 後藤第3号墳、西岡第44号墳
墳形 円墳
規模 径13m、高さ1m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 土師器坏形土器4、須恵器片、埴輪片

第4号墳
別名 後藤第4号墳、西岡第43号墳
墳形 円墳
規模 径18m、高さ2m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 
大刀3、鍔2、刀子1、鉄鏃3、轡片1、金環1、須恵器、土師器片
-----------------------------------------

第3・4号墳、測量図。
f0339895_06565177.jpg

f0339895_01292250.jpg

-----------------------------------------
所在地 田園調布1丁目 多摩川台公園内
多摩川台古墳群第5・6・7号墳
古墳の中心点を結び、その直線に横穴式石室の方向を交叉させると各々ほぼ直角に交わる。
これらは古墳の築造が計画的に行われてことを物語っている。
多摩川台古墳群における第4号墳と第5号墳の間隔は、他に比べ広く、埴輪の有無も合わせて考えると、第1~4号墳、第5~7号墳という二つのグループが想定される。

第5号墳
別名 後藤第5号墳、西岡第42号墳
墳形 円墳
規模 径20.1m、高さ2.75m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 
大刀4、刀子3、鉄鏃62、轡1、小玉221、管玉5、勾玉4、棗玉2、切子玉1、金環、銅環、須恵器片

第6号墳
別名 後藤第6号墳、西岡第41号墳
墳形 円墳
規模 径19.5m、高さ2.8m
埋葬施設 横穴式石室

第7号墳
別名 後藤第7号墳、西岡第40号墳
墳形 円墳
規模 径20m、高さ1.75m
埋葬施設 横穴式石室
-----------------------------------------

第5・6・7号墳の築造関係。
説明書きにあるように、確かに、3基の古墳の石室は主軸線と直角に設けられている。
f0339895_07010755.jpg


7世紀前半。
f0339895_01324299.jpg

-----------------------------------------
多摩川台古墳群第9号墳(新8号墳)
小谷を挟んで離れた位置にある。
昭和32年の発掘調査で、前室と奥室=玄室のある横穴式石室が発見された。
出土遺物の内容から、前室は葬送祭祀を行う場所、玄室は遺体安置の場所として利用されていたと考えられている。
-----------------------------------------

第9号墳(新8号墳)、測量図。
f0339895_07241568.jpg

第9号墳(新8号墳)横穴式石室実測図。
f0339895_07262448.jpg

これらの展示を見学し、多摩川左岸の台地に4基の前方後円墳が居並ぶ光景を想像した。
即ち;
多摩川台古墳の群1号墳(円墳)・2号墳(円墳)は前方後円墳が円墳に築造し直されたものとあった。
円墳に築造し直される前は、北から蓬莱山古墳、1号墳+2号墳、亀甲山古墳、更に、その南に谷をひとつ挟んで浅間山古墳があり、都合4基の前方後円墳が並んでいたこととなる。
多摩川の辺から左岸台地を眺めたとき、4基の前方後円墳が居並ぶ光景は壮観であったろうなあと思うのであった。


田園調布古墳群のうち、観音塚古墳、浅間様古墳、鵜木大塚古墳、西岡第22号古墳、浅間様古墳、田園調布埴輪製作址など、今回、探訪しなかった古墳に関わる展示については、ここでは割愛し、いずれ、これらを探訪したのちに改めて展示内容を引用することとしたい。


展示室の壁面の展示につづき、中央に置かれた箱の中を覗いてみる。
木棺に埋葬された様子を再現したものであった。

「木棺に埋葬された首長」。
a0289546_08450780.jpg
a0289546_08551441.jpg
a0289546_08453172.jpg
a0289546_08584212.jpg
a0289546_08473316.jpg

-------------------------------------------
木棺に埋葬された首長
棺の中には、美しく盛装した先代の首長と共に、首長が生前愛用していた武器や装身具、首長のシンボルとしての鏡などが副葬品としておさめられている。
周辺ケース内に展示せれている出土品も、昔はこのように美しい姿をしていた。
この副葬品の種類や量を調べることによって、首長が埋葬された年代、武人として活躍したのか、もしくは文人として優れていたのかなど、首長といての性格・権力、他地域の首長との関係、古墳時代の生産技術や生活など、いろいろなことが考えられる。
-------------------------------------------

出土した遺物の出土時の状況通りに図示された資料を見ることはあるが、こうしたリアルな形で埋葬された姿を再現したものは初めて見た。
見事な再現である。

次の展示コーナーへ進む。

フォト:2018年3月4日

(つづく)





[PR]

# by kazusanokami-2nd | 2018-03-05 23:57 | 武蔵国史跡めぐり | Comments(0)
2018年 03月 05日

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅰ)』 mk-6

(本ブログは兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」掲載分から転載、再編集したものです)

3月4日(日曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

今回の古墳めぐりのコースは;
JR南武線西府駅
~武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市西府町2丁目)
~御岳塚(東京都府中市西府町1丁目)
~高倉塚古墳(東京都府中市分梅町1丁目)
~分倍河原古戦場碑(府中市分梅町2丁目)
~多摩川サイクリングロード
~田園調布古墳群/蓬莱山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)・亀甲山古墳(東京都大田区田園調布1丁目)
~多摩川台公園古墳資料室
~東急多摩川駅

府中市内の古墳をめぐり、多摩川左岸サイクリングロードを走り、多摩川台公園に到着。
多摩川台公園内の、亀甲山古墳、蓬莱山古墳、その2基の間に8基の円墳が連なった多摩川台古墳群をめぐった。
そのあと、同じく、多摩川台公園内にある古墳展示室の展示物を見学する。

古墳展示室。
a0289546_00365837.jpg

ミニチュアで示された「古墳展示室の見どころ案内」。
a0289546_06412096.jpg

--------------------------------------------
ここから一歩、中に入ると6世紀、古墳時代の日本にタイム・スリップ。
築造当時のそのままに復元された全長約60mの前方後円墳が目の前に現れます。
皆様も、古代人になった気分で、古墳の周溝や石室の中を散歩してください。
①古墳展示室の見どころ案内
②復元された古墳
③マツリの風景「墓前祭」
④横穴式石室に入る
⑤木棺に埋葬された首長
⑥大田区の古墳
⑦古墳の断面
⑧古墳の造り方
⑨荏原(台)古墳群の分布
⑩武蔵国造の乱
⑪いろいろな古墳とその大きさ
⑫展望窓
--------------------------------------------


「棺を運ぶ葬送の列」。
a0289546_06070380.jpg
a0289546_06071526.jpg

マツリの風景「墓前祭」。
a0289546_06470461.jpg

墓前祭に集まった人たちの姿。
右から、大刀を持つ女、巫女、新首長、琴を弾く男、太鼓をたたく男。
これらの像は人物埴輪の形から想像して再現されたものである。

f0339895_00215774.jpg
f0339895_00221666.jpg

--------------------------------------
大刀を持つ女
大刀は武器として用いられるだけでなく、葬送の儀式では悪霊を追い払う呪術的道具としても重要な役割を果たしたことと考えられる。
墓前へと向かう葬送の行列では先頭を歩き、これに続いてマツリに参加する人々の先払いとなった。
そして、儀式では守護の象徴として人々とマツリの場を見守った。
このような大刀をもつのは霊力を持った女性の役目であったと思われる。
埴輪では巫女の姿で表現されている。
--------------------------------------

f0339895_00225984.jpg
f0339895_00231491.jpg

-------------------------------------
巫女
椅子に腰掛け、坏を捧げ持つ。
身を清めるための酒でも入っているのであろうか。
肩に回し衣をたくしあげる襷、肩から斜めに被られた游須比、幅の広い帯、腰につけられた鏡(六鈴鏡)と刀子(小刀)など、マツリを取り仕切る巫女の衣装や持ち物がよくわかる。
顔や首を赤く隈取りするのは、呪術的な理由からであろう。
-------------------------------------

f0339895_00235038.jpg
f0339895_00240655.jpg

---------------------------------------
新首長
椅子に腰掛け、前を見据え、意を正す様子は、即位したばかりの新首長としての緊張感と力強さを感じさせる。
ボタンのような装飾のある星形の鍔付帽子を被り、腕に籠手、手には手甲をつけ、衣を身にまとう。
椅子の上には左側に玉纏大刀が置かれている。
顔を首を赤く隈取りしているほか、美豆良(男性の髪形)を縛る飾り紐も赤い。
---------------------------------------

f0339895_00244581.jpg
f0339895_00245779.jpg

----------------------------------------
琴を弾く男
マツリの雰囲気を盛り上げる楽人の一人、膝の上に琴を置き、これを奏でている。
琴は埴輪にみられる最もポピュラーな楽器で、マツリの中でも重要な役割を果たしたのであろう。
このような琴は弥生時代の遺跡(2~3世紀頃)から既に発見されている。
奈良時代には中国や朝鮮から伝承した大形楽器に対抗して大きくなり、「和琴」と呼ばれるようになるが、これと区別するため「大和琴」、あるいはその姿から「鶏尾琴」ともよばれる。
----------------------------------------

f0339895_00253276.jpg
f0339895_00254850.jpg

--------------------------------------
太鼓をたたく男
太鼓が生み出す響きやリズムは、人々の心を自然とマツリの世界へ誘ってゆく。
墓前祭においてもこの楽器は重要な役割を果たし、こを奏する楽人もマツリの中心人物の一人であった。
胸の両側の皮は山形に縫った糸で留められている。
これを肩から吊るし、左手で支え、撥でたたいている。
太鼓をたたく姿の埴輪はたいへん珍しい。
--------------------------------------

形象埴輪配列の復元は、八幡塚古墳(群馬県高崎市)や塚廻り4号墳(群馬県太田市)で見学したことがあるが、人の形としてリアルに復元されたものを見たのはこれが初めてである。
大いに参考になる、誠によく出来た展示である。
この説明書きをヒントにし、埴輪のベンキョーを更にやってみたい。

次のコーナーへすすむ。

フォト:2018年3月4日

(つづく)



[PR]

# by kazusanokami-2nd | 2018-03-05 23:56 | 武蔵国史跡めぐり | Comments(0)
2018年 03月 05日

『武蔵国史跡めぐり/田園調布古墳群』 mk-5

(本ブログは兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」掲載分から転載、再編集したものです)

3月4日(日曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

今回の古墳めぐりのコースは;
JR南武線西府駅
~武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市西府町2丁目)
~御岳塚(東京都府中市西府町1丁目)
~高倉塚古墳(東京都府中市分梅町1丁目)
~分倍河原古戦場碑(府中市分梅町2丁目)
~多摩川サイクリングロード
~田園調布古墳群/蓬莱山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)・亀甲山古墳(東京都大田区田園調布1丁目)
~多摩川台公園古墳資料室
~東急多摩川駅

府中市内の古墳をめぐり、多摩川左岸サイクリングロードを走り、田園調布古墳群がある多摩川台公園(東京都大田区)に到着。
a0289546_01592957.jpg

多摩川台公園には、北東部に宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)、南西部に亀甲山古墳(かめのこやまこふん)、その間に1号から8号と番号のつけられた古墳が8基あり、都合10基の古墳がある。

方角的には、案内板の図を縦にすると上が北となり、南北に並ぶ古墳の位置が分かり易い。
a0289546_22281993.jpg
説明板に目を通す。
a0289546_22561892.jpg
--------------------------------------
東京都指定史跡
多摩川台古墳群
所在地 大田区田園調布1丁目63番
指 定 平成12年3月6日

多摩川台古墳は8基からなる古墳時代後期の古墳群である。
古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳(かめのこやまこふん)、北側には東京都指定史跡蓬莱山古墳(ほうらいさんこふん)の2基の大型前方後円墳が古墳時代前期(4世紀)に築造されている。
古墳群は最初に2号墳が6世紀前半に築造され、2号墳を前方部として利用し、1号墳を後円部とする前方後円墳(全長39m)が6世紀後半に築造された。
その後、3号墳から8号墳までの円墳(直径13~19m)が7世紀中頃まで継続して築造された。
発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。
本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に54基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。
今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。

平成13年3月31日設置 東京都教育委員会
--------------------------------------

北から順に古墳をめぐる。

宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)。

(前方部)
a0289546_22450608.jpg

(手前/前方部から後円部方向へ)
a0289546_22463953.jpg

説明板に目を通す。
a0289546_23190188.jpg
---------------------------------------
東京都指定史跡 宝來山古墳
宝來山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区立多摩川台公園西端の標高37.5メートル付近に築造された前方後円墳である。
この古墳は、国史跡亀甲山古墳に次ぐ第二位の規模をもつ、全長約97メートルの4世紀に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。
前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。
昭和9年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、倣製四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣、槍等が出土している。
現在、この出土品は、慶応義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。
また、この出土品のレプリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。
平成7年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明らかにされた。
墳丘は、前方部二段、後円部三段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。
この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成8年3月18日付けで、東京都指定史跡に指定された。

大田区
---------------------------------------

a0289546_23352392.jpg
---------------------------
古墳の規模<br>
全長   97メートル
後円部径 52メートル
前方部幅 38メートル
後円部高 11メートル
前方部高  8メートル
-----------------------------

墳丘に設けられた石段を上る。
a0289546_06021917.jpg

墳丘は雑木林状態となっているが、よく整備はされている。
雑木林状態の古墳は結構多い(というよりもそれが主流かもしれない)。

墳丘に定められた通路を歩く。
a0289546_06042689.jpg

「ここは古墳です。柵内に入らないでください」と書かれた立て札がある。
古墳を訪ねた際、墳丘に立ち入ることを許されている古墳では、前方部と後円部の墳頂に立ち、前方後円墳の墳丘全体を眺めることを楽しみとしているが、この宝莱山古墳ではそれは許されない。
古墳を維持するためにそれは止むを得ないことでもある。

8号古墳。
8号古墳は、宝莱山古墳から公園を挟んで南側に位置している。
a0289546_12072354.jpg

この写真は南側から撮ったもので、左側の小さな墳丘が8号古墳である。
後方の広場が公園、その奥に宝莱山古墳が位置している。

南へ歩く。
上り坂に階段が設えられた遊歩道が始まる。
a0289546_12115926.jpg

階段を上りきると右手に7号古墳が現れた。

7号古墳。
a0289546_12172996.jpg
a0289546_12540658.jpg
a0289546_12190287.jpg

遊歩道を南へ歩き進むと、7号古墳につづき、6号、5号、4号、3号、2号、1号古墳と、7号から1号までの古墳が次々と現れた。

少々、くどいこととなるが、ひとつずつ写真をアップしておこう。

6号古墳。
a0289546_12574811.jpg

5号古墳。
a0289546_12583295.jpg

4号古墳。
a0289546_12592070.jpg

3号古墳。
a0289546_13020964.jpg

2号古墳。
a0289546_13063646.jpg

1号古墳。
a0289546_13075285.jpg
a0289546_13115901.jpg
a0289546_13130587.jpg

更に南へ歩くと、金網に囲まれた亀甲山古墳が見えてくる。

亀甲山古墳。
a0289546_20262818.jpg

先ほどの蓬莱山古墳の説明書きに「(蓬莱山古墳の)前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている」とあった。
よって、北側から歩いて来て見える部分は前方部ということになる。

南側から側面を眺める。
a0289546_20313116.jpg

全長約107メートル、超広角レンズでないと、側面からの前方後円墳のすべての姿は納まらない。

趣きのある書体で「史跡 龜甲山古墳」と刻まれた石柱。
a0289546_20350823.jpg

説明書きに目を通す。
a0289546_20384595.jpg
--------------------------------------
国指定史跡 亀甲山古墳(かめのこやまこふん)
亀甲山古墳(かめのこやま こふん)は、東京都大田区から世田谷区におよぶ荏原台古墳群中最大の前方後円墳である。
発掘調査は行われておらず、詳細は不明であるが、埴輪、葺石などがないことや、その古墳の形により、5世紀前半頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。
この前方後円墳は、後円部南端を浄水場建設工事により削られているものの、比較的よく原形を保っている。
港区芝公園内にある丸山古墳と並んで、都内の代表的古墳である。
昭和3年(1928年)、国の史跡に指定されている。
大田区
---------------------------------------


平面、側面図と諸元。
a0289546_20515163.jpg

冒頭に掲載した説明板「多摩川古墳群」には「多摩川台古墳は8基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都指定史跡蓬莱山古墳の2基の大型前方後円墳が古墳時代前期(4世紀)に築造されている」とある。
この説明書きからすると、多摩川古墳群は8基のみで、亀甲山古墳と蓬莱山古墳の2基は多摩川古墳群には含まないように読める。

実は、今回の古墳めぐりを企画するに先立ち、多摩川左岸の古墳群を調べたところ、「多摩川下流左岸の世田谷区野毛周辺から大田区田園調布に広がる古墳群で50基あまりの古墳がある」、「田園調布を中心とする古墳群を田園調布古墳群と称し、野毛を中心とする古墳群を野毛古墳群と称する」、「田園調布古墳群と野毛古墳群を総称して荏原台古墳と称する」ということであった。

田園調布古墳群と多摩川台古墳群の関係を調べたところ、亀甲山古墳や蓬莱山古墳その他プラス多摩川台古墳群(=8基)からなる古墳群を田園調布古墳群と称するようである。

続いて、多摩川台公園内にある古墳展示室の展示物を見学する。

フォト:2018年3月4日

(つづく)


[PR]

# by kazusanokami-2nd | 2018-03-05 23:55 | 武蔵国史跡めぐり | Comments(0)