上総守が行く!(二代目)

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2017年 05月 07日

『上野国史跡めぐり/北部運動公園で芝桜見物、そして、太田駅へ』 nk-12

5月3日(水)、晴れ。
上野国史跡めぐり、第6弾。

太田駅から直線距離にして数km東に点在する、天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳群第4号墳を巡り、続いて、太田駅の北西部、直線距離にして10km超あたりの、上野国新田郡庁跡、二ツ山古墳、寺井廃寺跡(但し、太田市立強戸小学校構内/「寺井廃寺出土瓦」説明板)を訪ねた。

残る予定は、更に北へ走り、薮塚本町の、西山古墳(+北山古墳)、薮塚本町歴史民俗資料館、木枯し紋次郎ゆかりの地「三日月村」である。
だが、既に、夕方4時半。
予定を変更し、太田駅前観光案内所の人に教えてくれた太田市北部運動公園の芝桜を見物し、それでフィニッシュとすることにした。

県道39号線を東へ走る。
左手に丘が見えてくる。
丘の上で何かがはためいている。

「あれ、何かな?」。
「鯉のぼりですよ」。
「やっぱり、目、いいですね」。

県道から外れ、坂道を上り、太田市北部運動公園に到着。

芝桜。
きれい!
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鯉のぼり。
元気!
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鉄塔。
芸術的!
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今日の jitensha。
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つい、30分ほど前から曇り空に。
青空だったら、芝桜も鯉のぼりももっと映えたのに、なんてことは言わない。
朝から晴天、その晴天の下、楽しく史跡めぐりが出来たのだから。

北部運動公園から真っ直ぐ南へ下れば、太田駅近くに出ると思われる。
しかし、急がば廻れ。
来た道を戻ることにする。

蛇川サイクリングロードを走る。

往路、蛇川左岸を眺めながら、「あれは古墳かな?」、「いや、ただの盛り土かも」と言った辺りに至る。
「やっぱり、古墳のようですね」。
「そうやね。写真を撮っておきましょう」。
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アップで。
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更にアップで。
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帰宅後、この辺りをグーグル・マップでじっくりと眺めてみた。
「県指定史跡 鶴山古墳」なるもの、あり!

太田市HPを参照。
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鶴山古墳
金山丘陵の西側に広がる大間々扇状地末端の低台地上に造られた、長さ102mの前方後円墳です。
堀は墳丘に沿って一周していると推定されます。
造られた時期は5世紀後半頃と推定されています。
昭和23年に発掘調査が行われ、石槨内からは、甲冑・剣・大刀・刀子・鎌・斧等の鉄製品や刀子、鎌、斧の石製模造品が多量に出土、石槨外からも鉾や鏃等が出土しましたが、装身具・玉類・埴輪が全く出土せず、頭骨が発見されないなど不思議な古墳です。

指定区分 県指定史跡
指定年月日 昭和26年10月5日
所在地 太田市烏山上町2140ほか
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前方後円墳とある。
だが、この目で見た<こんもり>も撮った写真の<こんもり>も、前方後円墳ではなく、円墳のように見える。

更に、ネット検索で幾つかの資料を参照してみた。
①「本古墳は冶良門橋駅南方1kmほどの蛇川左岸にある」・・・その通りである。
②墳長102m、前方部幅54m、前方部高さ3.5m、後円部径54m、後円部高さ8m・・・前方部の高さが極端に低い。
③各方角からの写真
 周囲は畑。
 蛇川の護岸らしきものが写った写真もある。
 後円部は墳丘がしっかりと視認できる。
 一方、前方部は墳丘部らしきものは視認できない。
 前方部の高さが極端に低く、且つ、墳丘上は開墾されているため、写真では前方部の墳丘が視認できないのかもしれない。
④測量図
 主体部は東に前方部、西に後円部となっている。
 我らは蛇川の右岸(西)から眺めているので、西の後円部だけを見ていることとなる。
 よって、円墳に見えてもおかしくはない。

以上のようなことから、蛇川左岸に見えた古墳のような<こんもり>は鶴山古墳であるとの判定に至った。

教訓:
<こんもり>を見たら、古墳と思え。
時間がある限り、近くまで行き、古墳であることを示す標柱、説明板などを探せ。

太田駅から輪行にて帰途に就いた。

当初、予定していた、新田荘歴史資料館や西山古墳(+北山古墳)、薮塚本町歴史民俗資料館、木枯し紋次郎ゆかりの地「三日月村」はカットしたが、当初の予定通り、天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳群第4号墳、上野国新田郡庁跡、二ツ山古墳、寺井廃寺跡(但し、太田市立強戸小学校構内/「寺井廃寺出土瓦」説明板)を訪ねることが出来た。

本ブログを綴りながら、グーグル・マップを眺めていると、上野国新田郡庁跡の近くには「東山道」の表示があり、帰路、視認した「鶴山古墳」の東側に「亀山古墳」もあるなど、今回、めぐった界隈にはまだまだ他にめぐるべきところ/めぐってみたいところがある。
今回、カットしたところも含め、再び、この界隈をポタリングしてみたいものである。

パートナーと天気、そして、数々の史跡に恵まれ、よきポタリングであった。

フォト:2017年5月3日

(完)


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# by kazusanokami-2nd | 2017-05-07 23:42 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 05月 07日

『上野国史跡めぐり/寺井廃寺跡』 nk-11

5月3日(水)、晴れ。
上野国史跡めぐり、第6弾。

太田駅から直線距離にして数km東に点在する、天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳群第4号墳を巡り、続いて、太田駅の北西部、直線距離にして10km超のところにある上野国新田郡庁跡、更にその北に位置する二ツ山古墳を探訪。

既に、夕方4時を過ぎた。
先を急がねばならない。

二ツ山古墳をあとにして、寺井廃寺跡へと向かう。
事前の調べでは、「天良町、強戸中学校・強戸小学校付近」としか分かっていないが、現場探索で見つかることを期待して。

県道39号線を東へ走る。

太田市立強戸中学校。
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寺井廃寺跡らしきものは見当たらない。
強戸小学校へ向かう。
その途中にも、それらしきものはないかときょろきょろするも、見当たらない。

太田市立強戸小学校。
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寺井廃寺跡らしきものは見当たらない。
校門は閉じられており、構内には入れない。

と思ったとき、史跡めぐりの相棒、武衛さんの声。
「説明板らしきものがありますよ。モニュメントのずっと右の方に」。

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オリンパス・イーグルアイを望遠鏡代わりにして、ズームアップ。
武衛さんの指差す方向に焦点を合わせる。

「いかがですか?」
「ばっちりです!ええ眼、していますね!」。

説明板。
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太田市指定重要文化財
寺井廃寺出土瓦
所在地 太田市天良町858の2 強戸小学校
指定年月日 昭和51年(1976年)11月16日

強戸小学校から強戸中学校にかけての地域からは、第二次世界大戦前から古瓦の出土が知られる。
その後も、鉄釘、金具、瓦溜、礎石などが発見されており、これらの出土品や、この地域が「寺井」、「天良(てんら)」という寺に関係のある地名であることから、古代寺院遺跡の存在が想定されている。
しかし、その寺院の名称は、資料がないため、不明であり、「寺井廃寺」と呼ばれている。
また、規模や構造などの詳細も、本格的な発掘調査が行われていないため、不明である。

出土瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦がある。
軒丸瓦には、上野国分寺式系の素紋縁五葉重弁蓮華文瓦と、これより古い大和川原寺式系の面違鋸歯文縁八歯複弁蓮華文瓦などがある。

寺井廃寺は、有力な豪族の氏寺として、7世紀末頃(奈良時代白鳳期)に建立されたと推定され、東毛地域ではもっとも古い寺院と考えられている。
この頃、豪族たちは仏教の影響を受け、古墳の代わりに寺院を建立するようになったものと考えられる。

また、付近は、古代の官道である東山道の道筋にあたり、「新田駅」推定地にも近く、交通の要所であったと推定される。

(注)地名について
寺井廃寺がったとされる、強戸小学校から強戸中学校にかけての地域は、町名設定以前は、大字天良、大字寺井と呼ばれた。
「天良」は、万葉仮名読みで「てら」となり、寺の意に通ずる。
すなわち、「寺井」も「天良」も寺に関係のある地名である。

平成8年(1996年)3月31日
太田市教育委員会
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須恵器片・瓦片の散布状況から推定した寺井廃寺位置図。
(歴史の道調査書『東山道』(群馬県教育委員会1985)所収地図から作成)
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凡例
(網掛色調別)瓦片散布地域(なお、この南区域にも出土する)
(網掛色調別)瓦片が特に多量に出土する地域
(網掛色調別)須恵器破片・瓦破片出土地域
(網掛色調別)穀倉院跡と思われる地域(周辺の道まで達するか)
なお、七堂遺跡については、新田町教育委員会の調査により、さらに西および南西に広がっていることが確認されている。

古代瓦について、ずっと興味をもって来た。
説明書きによれば、寺井廃寺の瓦は川原寺系である。
関東一円の古代寺院は、川原寺系瓦の寺院と山田寺系瓦の寺院が混在している(紀寺系はないと理解している)。
例えば、下野薬師寺(栃木県下野市)は川原寺系である。
龍角寺(千葉県印旛郡栄町)は山田寺系である。
寺井廃寺と同じ群馬県内で最も代表的な古代寺院の、山王廃寺の瓦は何系?と思うも、思い出せない。

山王廃寺は、彼の有名な上野三碑のひとつ、山上碑に刻まれた放光寺であるとされる古代寺院である。
昨年12月、上野三碑を訪ね、今年1月、山王廃寺跡を訪ねた。
その際、山王廃寺跡に関わる数々の展示物がある前橋市立総社歴史資料館も見学した。
その展示物のことを綴ったマイ・ブログを今一度、紐解き、読み直してみた。
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山王廃寺出土瓦の変遷
山王廃寺出土の軒瓦には、蓮の花などをかたどった様々な文様が施されており、現在までに軒丸瓦15種17笵、軒平瓦9種が確認されています。
最も古い瓦は山王廃寺が創建された7世紀後半まで遡ります。
伽藍全体が整備された7世紀末~8世紀前半には、同じ型から作られた瓦が寺井廃寺(太田市)や金井廃寺(東吾妻町)で出土し、福島県でも同系統の瓦が出土するなど、広い地域に山王廃寺の影響が及んでいました。
8世紀後半に上野国分寺が創建されてからは、山王廃寺をはじめ県内の様々な寺院で、国分寺と同じ型から作られた瓦が多く出土しています。
山王廃寺から出土した瓦の多くは、安中市秋間窯跡群で生産されたもので、山王廃寺と秋間窯の操業者の間に強いつながりがあったと考えられています。
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寺井廃寺との関わりの記述はあるが、川原寺系とか山田寺系との記述は見当たらない。
因みに、山王廃寺第1期(山王廃寺創建~伽藍整備期)の出土瓦は、複弁七葉蓮華文軒丸瓦、あるいは、複弁八葉蓮華文軒丸瓦である。

古代瓦に関し、あちらこちらの歴史資料館の展示物をマイ・ブログで綴っている。
参考資料として、その<代表作>2件を本ブログの末尾に貼り付けておきたい。

説明書きの中に、「天良」、「寺井」の地名の由来について触れられている。
<地名由来好き>としては誠に結構な記述と思っている。

図によれば、寺井廃寺は現在地(強戸小学校正門)の南、約300mのところに位置していたと示されている。 
その地を探索してみたいが、時間切れ、次回の楽しみとする。

それにしても、何故、説明板が小学校の構内にあるのだろうか。
休日は校門が閉鎖され、一般人はその説明板を読むことは出来ない。
近年は、平日であったも、許可なく、部外者が構内に入ることは許されない。
瓦は構内のみならず、その周辺で出土しているとのことであり、であれば、校門の外に説明版が設置されていてもおかしくはないだろう。
機会があれば、太田市教育委員会に物申しておきたい。

=参考資料=
2016年7月26日付けマイ・ブログ『下総国史跡めぐり/房総風土記の丘資料館(Ⅳ)/古代瓦』 
2017年1月29日付けマイ・ブログ『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(下)/山王廃寺跡(Ⅲ)』





フォト:2017年5月3日

(つづく)

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# by kazusanokami-2nd | 2017-05-07 23:41 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 05月 07日

『上野国史跡めぐり/二ツ山古墳』 nk-10

5月3日(水)、晴れ。
上野国史跡めぐり、第6弾。

太田駅から直線距離にして数km東に点在する、天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳群第4号墳を巡り、続いて、太田駅の北西部、直線距離にして10km超のところにある上野国新田郡庁跡を探訪。

朝、太田駅に到着したとき、駅前に設けられた観光案内図で、上野国新田郡庁跡の北に「二ツ山古墳」なるものがあることを知った。
午後、上野国新田郡庁跡近くで「↑(北) 二ツ山古墳」の案内標識を見た。
当初、「二ツ山古墳」探訪は予定していなかったが、今回の太田市内史跡めぐりのメインは古墳。
よって、「二ツ山古墳」を探訪することにした。

上野国新田郡庁跡からを北上。
走ること、約1km、西に広がる田畑の中に、ふたつの<こんもり>が見えて来た。
西に向かう道に入り、ふたつの<こんもり>を目指し、走る。
道を挟んで、南側に<こんもり>がひとつ、少し離れて北側にもうひとつの<こんもり>が位置している。
ふたつの<こんもり>、まさに「二ツ山古墳」である。

二ツ山古墳。
南側の<こんもり>が2号墳、北側の<こんもり>が1号墳。
探訪したのは2号墳、1号分の順であったが、本ブログでは、1号墳、2号墳の順で綴っていきたい。
なお、いずれの古墳(群)でも、付された号は、築造時期の古い順ではなく、発見された順というのが一般的である。

標柱「史跡 二ツ山古墳」。
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1号墳全景。
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標柱「群馬県指定史跡 二ツ山古墳」と説明板。
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説明書きに目を通す。
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二ツ山古墳1号古墳
指定年月日 昭和23年11月2日
所在地 太田市新田天良町167-85-乙

二ツ山古墳1号古墳は、この地域の所在した古墳群中の一つで、南東に近接する2号墳と共に、前方後円墳である。

ニツ山古墳は、この地域に所在した古墳群中の一つで、南東に近接する2号墳と共に、前方後円墳である。
かつては周辺にいくつかの円墳が見られたが、現在は残っていない。

この古墳は、主軸を北西から南東にとり、全長74m、高さ6mで2段に構築され、周囲には堀跡が認められる。
墳丘は、よく原型を保ち、下段の平坦部には二重にめぐらされた円筒埴輪列のほか、人物・馬などの埴輪列があり、墳頂部からは家型埴輪が出土した。

石室は、明治21年(1888年)に発掘され、南南西に開口している横穴式石室である。
奥行は約7m、高さ約1.8mから2.1m、奥壁は一枚石、側壁は下部に大型の石を並べ、上に行くに従い、徐々に小さくなる傾向がある。
石室内からの出土品は、刀剣類、馬具等があり、東京国立博物館に保管されている。

この古墳の特徴としては、円筒埴輪の配列により、前庭状の施設が設けられている点が挙げられる。

築造年代は古墳文化が終末期に入ろうとする6世紀後半から7世紀の初めと考えられている。
その規模から、ニツ山古墳群の中枢をなしていたものと思われる。
また、南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である。

平成27年3月25日
太田市教育委員会
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この説明書きから、ふたつの前方後円墳と幾つかの円墳からなる「ニツ山古墳群」と称すべきことが分かる。

説明書きにある「南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である」とは、具体的にどういうことが考えられるのか、この古墳の被葬者はこの地の豪族で、後に、都と結びついたその末裔が仏教を取り入れ、寺井廃寺を建立し、後に、上野国新田郡衙の要職を務めたというようなことなのであろうか。
一度、太田市教育委員会に問い合わせてみたいものである。

測量図/上、1号墳、下、2号墳。
この図から;
1号墳は主軸を北西(前方部)から南東(後円部)にとっていることがよく分かる。
2号墳は主軸を西(前方部)から東(後円部)にとっていることがよく分かる。
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裾部/南西角から。
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墳丘に上る。
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前方部から後円部を眺める。
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北側の裾部近くに石材が置かれている。
石室解体後の石材だろうか?
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アップで。
石室に使われていた石材に見えなくもない。
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横穴式石室の開口部(南南西)。
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アップで。
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横穴式石室の開口部から数メートル下に大きな石が置いてある。
これも石室に使われていた石材の一部だろうか?
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1号墳から2号墳を眺める。
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2号墳。
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説明書きに目を通す。
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群馬県指定史跡 二ツ山古墳2号墳
指定年月日 昭和59年7月3日
所在地 太田市新田天良町167-172-乙

二ツ山古墳2号墳は、北西に隣接する1号墳と共に、この付近の代表的な古墳である。
墳丘は、主軸を東西にとる二段築造の前方後円墳であり、周囲に堀跡が認められる。

墳丘規模は、全長45mで、後円部の幅32m、高さ6m、前方部の幅22m、高さ3m、堀幅は10mと推定される。

主体部は、自然石乱石積みの横穴式石室で、後円部南側に開口している。
現状奥行き7m、羨道幅1m、玄室幅2.8m、高さ1.95mである。

築造年代は、6世紀後半から7世紀初めと考えられている。
1号墳と共に、終末期の前方後円墳であり、南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である。

平成27年3月25日
太田市教育委員会
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航空写真/左(北) 1号墳、右(南) 2号墳。
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古墳全景の<こんもり>。
東西に走る道に立ち、北西部から眺める。
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更に近づいて、北西から<こんもり>を眺める。
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ぐるっと回り込んで、南西から<こんもり>を眺める。
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墳頂に上る。
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西(前方部)から東(後円部)を眺める。
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二つの古墳の間を東西に貫く道。
レスピーギ作曲、交響詩「ローマの松」の第4部「アッピア街道の松」を思い起こさせる。
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二ツ山古墳をあとにして、寺井廃寺跡へと向かう。
事前調べでは、「天良町、強戸中学校・強戸小学校付近」としか分かっていないが、現場探索で見つかることを期待して。

フォト:2017年5月3日

(つづく)


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# by kazusanokami-2nd | 2017-05-07 23:40 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 05月 06日

『上野国史跡めぐり/新田郡庁跡』 nk-9

5月3日(水)、晴れ。
上野国史跡めぐり、第6弾。

太田駅から直線距離にして数km東に点在する、天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳群第4号墳を巡り、続いて、太田駅の北西部、直線距離にして10km超のところにある上野国新田郡庁跡へと向かう。

県道2号線を西へ、蛇川サイクリングロードを北上、県道39号線を西へ走り、太田市天良町(てんらちょう)の新田郡庁跡に到着。

これまで、関東一円の国府跡/国衙跡/国庁跡をめぐったことはあるが、郡衙跡や郡庁跡を訪ねるのはこれが初めてである。

国指定史跡 上野国 新田郡庁跡。
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説明書きに目を通す。
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国指定史跡 上野国新田郡庁跡
所在地 太田市天良町7-1ほか
指定年月日 平成20年(2008年)7月28日

上野国新田郡庁跡は、古代新田郡における郡衙(郡家)の中枢施設です。
この施設は、以前から礎石建物跡や炭化米の出土が知られていた天良七堂遺跡内に存在します。
上野国内における郡衙の具体的な施設を記した『上野国交替実録帳』によれば、新田郡庁は東西南北に「長屋」を配置することが記されており、そえが合致する長大な掘立柱建物跡が発掘調査により確認されました。
郡庁は全国的にも例のない規模で、一辺約90m四方(通常の大きさは50m四方)に及び、四辺には長さ約50mの長大な建物が配置されていました。

新田郡庁の時期は、出土遺物により7世紀後半から9世紀前半にかけてのものと考えられ、五段階の変遷をたどることがわかってきました。

新田郡庁跡の周辺ですが、南側には古代の東山道駅路が通過し、東側には寺井廃寺、西側には瓦葺の基壇建物跡が確認された入谷遺跡や堀に囲まれた区画の中に大型の掘立柱建物跡が確認された笠松遺跡といった古代の重要遺跡が存在しています。

正殿:
郡庁のほぼ中央で確認され、掘立柱建物から礎石建物へと建替えられていたことがわかりました。
最盛期には正殿の前に前殿が建てられたこともわかりました。

正倉(米などを保管する倉庫)群:
発掘調査によって『上野国交替実録帳』の記載のとおり、群庁の東・西・北側から検出されています。
また、郡庁と正倉を取り囲むように台形状の外郭溝(東西約400m、南北約300m)が確認されています。

平成26年(2014年)3月20日
太田市教育委員会
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「上野国新田郡庁跡」航空写真。
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「上野国新田郡庁跡」推定復元図。
説明書きと照らし合わせながら、推定復元図を眺める。
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これまで、関東一円の国府跡/国衙跡/国庁跡をめぐって来ていることもあって、この郡庁跡の説明書きや復元図から郡庁についてもよくイメージ出来た。

天良七堂遺跡(てんらしちどういせき)について、もう少し調べてみた。太田市のHPに次の通り掲載されていることをここに引用しておこう。
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1.新田郡庁内を区画する溝の発見
新田郡庁の内部に新たに区画溝が発見されました。
これにより、創建期(7世紀後半)に約90m四方と国内最大の規模であった郡庁が、最終段階(9世紀)には約60m四方の規模に縮小されていたことがわかりました。
(発掘調査時の写真あり)
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2.新田郡衙の外側を区画する溝の発見新田郡衙の東西南北方向を区画する溝が発見されました。
この発見により、郡衙の周囲が、上の図のように東西約400m、南北約300mの台形の形に区画されていることがわかり、郡衙の敷地が広大であったことが明らかになりました。
(発掘調査時の写真あり)
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3.新田郡衙の南で東山道駅路を発見
新田郡衙の南に隣接した部分で、古代の道路跡が発見されました。
この道路跡は、両側に側溝を持つ路面幅約12mの大規模な道路で、東山道駅路と推定されます。
東山道駅路は、奈良の都から東北地方へ向かっていた古代の国道です。
この発見によって、新田郡衙が東山道駅路に接していたことが明らかになりました。
(発掘調査時の写真あり)
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4.郡庁内へ向かう通路の発見
新田郡衙の南を区画する溝の北側で、郡庁の正面へ向かう通路の跡が発見されました。
この通路は、地面を掘り下げた部分を敲き締めて、非常に硬い路面を造り出してしました。
郡庁の正面に向かっていることから、正門へ向かう通路であったと考えられます。
(発掘調査時の写真あり)
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5.新田郡衙初期の正倉(米倉)の発見
新田郡衙では、これまで多くの正倉跡(米を貯えた倉)が発見されていますが、これらのほとんどは礎石の上に建物を建てる構造でした。
今回の調査では、郡庁の北部で新たに掘立柱建物という地面に穴を掘って柱を建てる構造の倉の跡が発見されました。
この建物跡は、古い時期の正倉と考えられれ、初期の正倉が郡庁の北部にあったことが明らかになりました。
(発掘調査時の写真あり)
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掘立柱建物跡(復元)。
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掘立柱建物は朱色の木柱で復元するのが普通だが、ここではドラム缶で掘立柱の穴があった場所が示されている。
(予算の関係で、ドラム缶なのかな?)。

説明板や太田市HPでは礎石建物跡にも触れられているが、礎石は見当たらなかった。

事前の調べで「東山道跡(寺井廃寺跡の南にあったと推定される。案内板はないと思われる)」という理解であった。
説明板や太田市HPで東山道について触れられている。
更に、郡庁に向かう道についても触れられている。
東山道と国庁の位置関係について、下野国庁跡資料館(栃木市)でベンキョーしたことがあるので、東山道と新田郡庁の位置関係についてもよくイメージ出来る。
今回は時間がなく、以前、前橋市・高崎市境界線あたりで行った東山道跡探索のようなことはしなかったが、次回、時間があるときに東山道跡と郡庁に向かう道の跡探してみたい。

説明板内の推定復元図と群庁跡をセットで。
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次は、当初、予定していなかった「二ツ山古墳」へと向かう。

フォト:2018年5月3日

(つづく)

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# by kazusanokami-2nd | 2017-05-06 23:39 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 05月 06日

『上野国史跡めぐり/太田駅前観光案内所にて』 nk-8

5月3日(水)、晴れ。
上野国史跡めぐり、第6弾。

迷いに迷って、行き着いた塚廻り古墳群第4号墳ではあったが、訪ねた甲斐のある古墳であった。
塚廻り古墳群をあとにして、次の立ち寄り先へと向かう。

次の立ち寄り先は、太田駅を通り過ぎ、ずっと西にある「新田荘歴史資料館(世良田町)」である。
今朝、太田駅に到着したとき、新田荘歴史資料館に古墳関係の展示があるかどうか、観光案内所で確認したかったのだが、朝早かったので、駅前の観光案内所はまだ閉まっていた。
ということで、太田駅前の観光案内所を目指し、来た道を戻る。

太田駅前観光案内所。
「ちょっと、お尋ねしますが、新田荘歴史資料館には古墳関係の展示はあるでしょうか」。
「新田義貞関連の展示となっています」。
ということなので、新田義貞さんには申し訳ないが、新田荘歴史資料館は今回は見送りとした。

「先ほど、塚廻り古墳群に行って来ました。案内標識が十分でなく、迷いました。観光案内所さんから太田市か群馬県に標識を整備するように言っておいて戴くと有難いです。と、古墳好きのGGが言っていたと伝えてください」。

「ところで、こんなところを訪ねておくといいですよ、というところがあったら、教えてください」。
「花などいかがですか」
「花、いいですねぇ」。
「カタクリの花が咲いているところがありますが、残念ながら、ちょうど、時期が過ぎたところです。北部運動公園では、今、芝桜がきれいです」。

観光地図をみると、北部運動公園は今から我らが向かおうとしている新田郡庁跡や寺井廃寺跡に比較的近い。

「せっかくのお勧めなので、北部運動公園の芝桜に寄ってみることにします。有難う」。

太田駅前から県道2号線を西へ走る。
観光案内所で貰った観光地図によると、蛇川サイクリングロードを北上すると、我らが行こうとしている新田郡衙郡庁跡方面となる。

蛇川なる川になかなか行き着けない。
道行く高校生に尋ねてみた。
知らないという。
ここ数年、地元の高校生に道を尋ねても的確な答えが返って来たためしがない。
地元のことをよく知らない高校生が多いということは多々実感して来ており、であれば、聞かなきゃいいじゃないかということになるのだが、ついつい、期待して、聞いてしまうのである。
今回、知らないという答えであっても、失望することはなく、次回、期待に沿った答えがが来るのではないかと楽しみなのである。

更に走る。
あった!
蛇川サイクリングロード!
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もう一枚!
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更に、もう一枚!
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蛇川とは。
蛇川は石田川の支流。
石田川とは。
群馬県太田市および埼玉県熊谷市を流れる利根川水系の一級河川。

蛇川右岸を北へ遡る。

県道39号線に行き当たり、左折し、県道39号線を西へ走る。
しばらく走ると、右手に上野国新田郡庁跡が見えて来た。

フォト:2017年5月3日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-05-06 23:38 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)