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上総守が行く!(二代目)

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2017年 04月 03日

『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2

2016年4月2日(土曜)、晴れのち曇り。
讃岐国史跡めぐり。
義兄、讃岐守さん運転の四輪で。
坂出市府中町の国府跡とその近くの古代寺院である開法寺の塔跡を見学。
そののち、国府跡の東、約2kmの、高松市国分町の国分寺跡へと向かう。

特別史跡 讃岐国分寺跡。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_8492623.jpg
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特別史跡 讃岐国分寺跡
741年(天平13年)、聖武天皇の国分寺造営の詔によって、讃岐国にも国分寺と尼寺が建立されました。
讃岐国分寺は四国八十番札所国分寺として法燈を伝えており、境内には往時の金堂、塔の礎石がほぼ原位置で残っています。
四国唯一の特別史跡として保存・整備し、歴史的環境と調和した町づくりを目指して、昭和58年度から発掘調査に着手しました。
あしかけ9年におよぶ調査の結果、築地塀跡、鐘楼跡、僧房跡、掘立柱建物跡など多くの建物跡が確認され、往時の讃岐国分寺が姿を現しました。
これらの遺構は体験学習ができるように復元表示を行い、特に、僧坊跡は発掘した遺構とその一部を復元した建物を一度に見学することができます。
また、かつての伽藍の東側には讃岐国分寺跡資料館があり、讃岐国分寺跡から出土した土器や瓦を展示しており、金堂跡の復元模型や解説パネルによって、往時の讃岐国分寺について知ることができます。
高松市教育委員会。
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『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_8494597.jpg
赤:伽藍建物等推定範囲
青:復元施設
緑:遺構明示施設

この図で伽藍配置を確認する。
南から北へ、南大門推定地、中門跡(現仁王門)、金堂跡(礎石)、講堂跡(現本堂)、僧房跡(復元)が並ぶ。
中門から金堂を結ぶ東西南北の回廊に囲まれた中に塔跡(礎石)がある。
講堂跡の東側に鐘楼跡がある。

中門跡(現仁王門)。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_9171682.jpg
金堂跡(礎石)。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12105773.jpg
講堂跡(現本堂)の写真はなし(撮り忘れ)。
塔跡。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12112720.jpg
塔心礎の上に石積みの宝塔が置かれている。
七重塔に見立てての石積みなのであろう。

塔跡前の案内板「国分寺由来」と創建時の金堂と七重塔再現図。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1212849.jpg
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國分寺由来
具には、白牛山千手院國分寺と云う。
古義真言宗御室派(本山は京都御堂仁和寺)の別格本山であります。
四国八十八ヶ所霊場の第八十番札所であります。
創建は奈良時代の中庸、天平13年’西暦741年)聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により、国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽等を願って、建立された寺であります。
正面突き当たりの本堂は古文書 國分寺記録によれば往古の講堂であり、鎌倉時代中期の建造物であります。
この本堂に安置されている本尊は大慈大悲の十一面千手観世音菩薩で俗に丈大仏と称される5.6米余の巨像であります。
金堂礎石 目前の石群は創建当初の金堂(本堂)の柱石で、実測間口14間、奥行(南北)7間(天平尺)の大堂でありました。
七重塔礎石 山門と金堂の中間右側にある石群が草創期の七重塔礎石であります。
全ての國分寺は五重塔ではなく、七重塔であります。
この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)と共に17個あり、5間四方(正方形)の塔で、京都東寺五重塔(高さ東洋一)以上の規模の大塔でありました。
※当山の正式名称は宗教法人國分寺であり、「跡」や「公園」ではありません。
別格本山 四国八十番
讃岐國分寺
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境内南側の道を東へ歩く。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12124376.jpg
境内東側の広い空き地へ出る。
往時の伽藍域を偲ばせる広さである。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12132520.jpg
右端にちらっと、築地塀(復元)が写っている。
正面奥に、小振りの、石造りの七重塔(復元)が写っている。

築地塀(復元)。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12135336.jpg
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築地塀
築地塀は、昔の役所や寺院などに作られ、内と外を区切る重要な施設です。
築地塀の外側には、さらに堀をめぐらしております。
発掘調査の結果、東西220m、南北240mの範囲を築地塀で方形に囲っているいることが分かりました。
ここでは、発掘調査結果に基づいて築地塀の一部を復元しております。
大きさは、下幅1.5m、上幅1.5m、高さ3.93m、屋根には蓮華文の軒丸瓦と唐草文の軒平瓦を複製してのせております。
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石造りの伽藍配置模型。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12165998.jpg
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『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_12595342.jpg
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奈良時代の讃岐国分寺には、仏像を安置する金堂、釈迦の骨やそれにかかわる経典を納めた塔、僧侶が勉学する講堂、僧侶の共同宿舎である僧坊、時刻を知らせる鐘楼などの建物が軒をつらねていました。
敷地は東西220m、東西240mと国分寺としては標準的な大きさで、塔を回廊内の東に置く建物配置が特色です。
ここでは、当時の建物を10分の1の縮尺で復元しました。
石材を用いてつくったものですが、屋根の丸瓦や垂木を彫り込むなど、木造建築をできるだけ忠実に再現しました。
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鐘楼跡。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1315248.jpg
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鐘楼跡
南北6.3m(柱間3間)、東西4.2m(柱間2間)の南北棟の礎石付き建物です。
二階建てで、講堂の東側にあるので、鐘楼跡と考えられています。
鐘楼は、僧侶が共同生活を行う上で必要な時刻を知らせる建物です。
金堂もしくは講堂から離れて西に経蔵、東に鐘楼と対称に配置されたようです。
ここでは盛土をして基壇をあらわし、新しい礎石を並べて規模を示しました。
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僧房跡(復元)。
東側から。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1331495.jpg
僧房内に入る。
東側から。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1334293.jpg
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1335420.jpg
北側から。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1345027.jpg
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1351767.jpg
西側奥から。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1353715.jpg
僧房跡説明板/その1。
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僧房の中の生活
国分寺の僧は国家試験にパスしたエリート達、彼らは鎮護国家・除災招福・五穀豊穣を願う定期的な法会、あるいは、天皇の崩御や内乱・外的など突発的な法会・修法を執り行った。
その祈りの効果を高めるために、僧達は共同生活によって常日頃から心身を清め、勉学に励んだ。
僧房は彼らの共同宿舎。
土間にベッドの寝室、棚には若干の私物がある。
庇部分に机を置き、連子窓から漏れる明かりで経典を学ぶ。
中央間三間では、一定の作法に則って共同で食事をとる。
家族と自由に会うこともままならなかったという。
ここでは、実際の遺構の上に僧房を一部復元したが、内部構造が理解できるように柱・壁を途中で断ち切っている。
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僧房跡説明板/その2。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_139121.jpg
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讃岐国分寺僧房跡および覆屋
国分寺の造営を命じた聖武天皇の詔勅では、僧寺に20人の僧、尼寺に10人の尼を置くよう指示している。
彼らは各々共同生活を行い、戒律を守って修行に励み、国家や天皇家の安穏を願って読経・祈願した。
その共同宿舎が僧房(尼房)である。
讃岐国分寺僧房は、昭和60年度の発掘調査の結果、東西88m、南北16mの基壇上に建つ東西84m(柱間数21間)、南北12m(柱間数3間)の長大な建物であることが判明した。
これは国分寺の僧房としては最大級であるばかりでなく、礎石や礎石の間に残る柱間施設がきわめてよく保存されている点で多くの注目を集めた。
その内部は、東西21間を3間ずつ計7単位に壁で仕切り、中央の3間 x 3間を食堂的な共同利用間とする。
残りの6単位(房)では柱の間を区切って小さな部屋を設け、各単位に4室ずつ計24部屋を備えていた。
柱間施設などから、このように僧房の内部構造が具体的に復元できた例は全国的にも珍しく、昭和63年4月、覆屋を設けて、この遺構を広く一般に公開することとした。
高松市教育委員会
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東側の出入り口。
『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡』 sk-2_f0339895_1310462.jpg
こちらにも案内板が立っているが、これまでの案内板と内容はほぼ同じなので書き下しは割愛する。

隣接の讃岐国分寺跡資料館へ行ってみることにした。
伽藍域内東側の出入り口を出て、少し歩くと、讃岐国分寺跡資料館が見えて来た。

フォト:2016年4月2日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2017-04-03 23:52 | 讃岐国史跡めぐり


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