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上総守が行く!(二代目)

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2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾/山王廃寺跡、総社古墳群。

9:44 高崎駅に降り立つ。
武衛さんの親戚宅へ向かう。
昨年11月の上野国史跡めぐり第二弾で走った道なので、地図を見ることなく、ひたすら走る。
途中、彼方に雪山が見え隠れする。
浅間山である。
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アップで。
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更にアップで。
山頂から白く立ち上がるものが見える。
雲であろうか、噴気活動の水蒸気であろうか...。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_1756433.jpg
武衛さんの親戚宅にお邪魔する。
古墳談義、スポーツ談義、文学談義、音楽談義など話題いろいろ。
群馬名物の焼きまんじゅうをご馳走になる。
秘密のケンミンショーで紹介された、あの「焼きまんじゅう」である。
串に刺された大ぶりのふわっとしたまんじゅうに甘辛い味噌ダレの味、おいしく頂戴した。

親戚宅を辞し、県道10号線を東へ走る。
道路沿いで、遺跡発掘調査中。
何の遺跡を発掘しているのであろうか。
後方に見える山並みは榛名山とその周辺の山々のようだ。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_18224582.jpg
棟高東交差点に至る。
この交差点は、昨年9月の上野国史跡めぐり第一弾で、国分寺跡から東山道跡へ向かうときに走ったときの通ったことがある。
ここまでくれば、土地勘あり。
交差点を左折し、北上する。
右手前方に赤城山とその見事な稜線が見えて来た。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_18245084.jpg
浅間山は見えるだろうかと、左手の彼方を見る。
遥か彼方に浅間山が見えた。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_18251070.jpg
アップで。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_18254750.jpg
辻久保交差点角のイオンが見えて来た。
辻久保交差点を右折し、新・県道127号線を東へ走る。
上野国分寺跡を横目に見ながら、東へ走る。
関越自動車道の高架をくぐり、東へ走る。
上野国分尼寺跡を横目に見ながら、東へ走る。
左手に、元総社北小学校と元総社中学校が見えて来る。
この学校が山王廃寺跡への目印だ。
山王廃寺跡は学校の北、数百メートルのところにある。
新・県道127号線を外れ、北上する。

「国指定史跡 山王塔跡 国指定重要文化財 根巻石 100m→」の標識あり。
ほっとする。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_18392653.jpg
ほっとしついでに、jitensha を止めて休憩する。

標識の下に石柱がある。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_9312018.jpg
石柱には、一部、読み取れない文字もあるが、「向〇左國府村大字東國(分?)〇道」と刻まれている。
この「國府村」について調べてみた。
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国府村
1889年(明治22年)、町村制施行により、東国分村、西国分村、引間村、後疋間村、塚田村、稲荷台村、冷水村、北原村が合併し西群馬郡国府村が成立する。
1896年(明治29年)、郡統合(西群馬郡と片岡郡の統合)により群馬郡に属する。
1955年(昭和30年)、堤ヶ岡村、金古町と合併し、群馬町となる。
2006年(平成18年)、群馬町は高崎市に編入され、消滅。
(ウィキペディア、参照)
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昨年9月、上野国分寺跡を訪ねた際、伽藍域で「上野國分寺趾 昭和三十四年三月建設 群馬町」と刻まれた石柱を見た。
今回、見た石柱は、「群馬郡群馬町」になる前の「西群馬郡(もしくは群馬郡)国府村」なのである。

標識の近くに、立派な外構をもった石碑が立っている。
「都丸高親翁碑」とある。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_9502392.jpg
説明板に目を通す。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11121265.jpg
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都丸高親翁碑(筆子塚)
生・文政2年(1819年)7月7日 没・明治11年(1878年)4月5日 享年60歳
高親翁は、幼名を美和太郎、通称重信と称した。
父、清左衛門の長男として当地に出生、少年期より学問を好み、赤石元良や星野勝太郎に師事し、国学・和算・暦学・窮理等を修めた。
安政2年(1855年)昌楽寺廻り村の組頭となり、窮乏する村民を多額の投資をして救助し、前橋藩主より名字帯刀を許された。
慶応元年(1865年)から名主となり、明治新政府したでは地租改正に伴う土地測量を実施。
革新政策に力を発揮した。
この間、父の開設した寺子屋を続け、200有余人の弟子を教育した。
勤倹温醇な性格で俳諧、和歌、花道などを嗜んだ。
この碑は、明治33年(1900年)、門弟筆子有志、親族等98名により建立された(裏面)。
本碑の撰文は重野安繹、書は金井之恭、題額は東久世通禧である。
墓所は南東の都丸家墓地にある
平成13年3月吉日  総社地区史跡愛存会
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この碑がら、都丸氏はこの辺りの名士であることが推察出来る。
由来好きの小生、「都丸」姓の由来などについて調べてみた。
読みは「とまる」で、「都丸」の異形として、戸丸、外丸、登丸、渡丸などがある。
「前橋藩主より名字帯刀を許された」とあるから、名字の由来があるはずだが、よくはわからず。
都丸姓は全国で約4400人、そのうち群馬県内に2800人が在住とあり、群馬県に多い名字であることが分かる。

碑文に出てくる撰文、書、題額の人物の名も気になる。
ウィキペディアを参照してみた。

「撰文は重野安繹」。
重野 安繹(しげの やすつぐ)。
1827年(文政10年)-1910年(明治43年)。
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在坂元村(現在の鹿児島県鹿児島市)生まれ。
江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。
日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の権威、また日本最初の文学博士の一人。

「書は金井之恭」。
金井 之恭(かない ゆきやす)。
上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)生まれ。
1833年(天保4年)-1907年(明治40年)。
幕末期の志士、明治期の官僚、書家。

「題額は東久世通禧」。
東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ。
1834年(天保4年)- 1912年(明治45年)。
日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。
七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。
王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。
神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。

この碑を建立した門弟筆子有志や親族の中に、これらの人物と縁のある人が居り、撰文や書を頼んだのであろう。

往路、"Hi Qualty Farm TOMARU" と書かれた、洒落た看板を見た。
あれ、何やろね?と言うも、そのままに。
後日、武衛さんから「"Hi Qualty Farm TOMARU"は大規模な養鶏場。都内のスーパーでトマル・ファームの卵が売られています」との情報あり。
株式会社トマルのホームページを見ると、都丸家は農業と養蚕を営み、桑を育てるための肥料の出費が多いため、養鶏により自前で肥料を賄えることとしたのが創業の原点とあった。
都丸高親翁碑の「都丸」を見たとき、看板の"TOMARU"とは繋がらなかったが、都丸家は昔も今もこの地の名門であることがよく分かった。

石碑のすぐ左側の遥か彼方に、浅間山が見える。
アップで。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11125819.jpg
更に、超アップで。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_1113938.jpg
現在地とその周辺地図。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_115478.jpg
現在地の南西に国分寺跡、その東に関越自動車道を挟んで国分尼寺跡、現在地の東に日枝神社。
最下段に「旧地名 北原分中原(総社町) 」とある。
調べてみると、不動産屋の広告に「前橋市総社町総社字北原分中原」と書かれているものがある。
「字北原分中原」の「北原」は「1889年(明治22年)、町村制施行により、東国分村、西国分村、引間村、後疋間村、塚田村、稲荷台村、冷水村、北原村が合併し西群馬郡国府村が成立」の北原村を指すのであろうか。
旧地名からいろんなことが想像するのも楽しいことである。

標識に従い、東の路地に入る。
御屋敷。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11542579.jpg
2階屋根の上に、ほぼ総幅の櫓がある。
養蚕農家の造りである。

更に東の建物も2階屋根の上に櫓がある。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11553249.jpg
路地の東側からの風景。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11554893.jpg
日枝神社の近くにから2階屋根の櫓の家並みを眺める。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_1156759.jpg
日枝神社前の石材店。
『上野国史跡めぐり/山王廃寺跡、総社古墳群/高崎から前橋市総社町へ』 sh-2 _f0339895_11563055.jpg
看板に書かれた住所は「前橋市総社町総社山王2782-1」となっている。
日枝神社の今の住所は「前橋市総社町総社2408」であり、「総社山王」はない。
しかし、この石材店の看板にある「総社町総社山王」の住所から、嘗て、この地は「総社山王」と呼ばれていたことが分かる。

日枝神社は山王廃寺跡に鎮座している。
この地に古代寺院の遺物があったことから、地名に由来して「山王廃寺」と名づけられたのであろう。
この地が「山王」と呼ばれるのは、このあと、日枝神社の由緒に目を通したときに分かることとなる。

さあ、いよいよ、山上碑と繋がりのある放光寺=山王廃寺跡=の見学である。

フォト:2017年1月28日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:31 | 上野国史跡めぐり


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