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上総守が行く!(二代目)

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2016年 10月 25日

『播磨国史跡めぐり/御着城址』 hk-4

10月21日。
JR御着駅下車。
西へ数百メートル、歩き、播磨国分寺(僧寺)跡を訪ねた。
続いて、北へ数百メートル、歩き、播磨国分尼寺跡を訪ねた。
相棒は、関西の盟友、六々守さん。
国府跡・国分寺跡・総社めぐりのテーマからは外れるが、戦国時代の史跡めぐりだって勿論 OK だし、
城郭めぐりを趣味としている義弟、武蔵守くんへの土産話としても丁度いい。
国道2号線を東へ歩き、御着城跡へ向かう。

国道2号線沿いに立つ案内標識。
「黒田官兵衛ゆかりの地 左/御着城跡 黒田家廟所 黒田官兵衛顕彰碑 右/小寺大明神」。
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御着城址。
『播磨国史跡めぐり/御着城址』 hk-4_f0339895_6561924.jpg
説明板に目を通す。
『播磨国史跡めぐり/御着城址』 hk-4_f0339895_6574921.jpg
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御着城跡
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨の守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永正16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と承継され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡されたとされるが、嘉吉年間(1441~44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年(1492~1501))には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。
昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ、本格的な縄張りが行なわれた事が判明。
中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。
現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。

平成13年3月
姫路市教育委員会
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御着城跡案内図。
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右下には次の通り記されている。
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破線部分は発掘調査による「堀跡」
平成25年3月 姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会
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左下には次の図が掲示されている。
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「御着城跡縄張推定図」(姫路市史)
※太線で囲んだ部分が発掘区
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発掘区を図示する意図は理解できるが、「縄張推定図」とするなら、縄張も図示して貰わなければ、城郭の全体像はイメージ出来ない。

図示の仕方は「喝!」だが、顔抜き看板は「あっぱれ!」である。
顔抜き看板、大好き人間なので。
顔抜き看板/その1。
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顔抜き看板/その2。
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黒田官兵衛顕彰碑。
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黒田官兵衛孝高と御着城
黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば、近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町)の出身とされます。
重隆の代に播磨に入り、御着城主小寺政隆に仕えました。
御着城は永正16年(1519)に築城されたと伝わりますが、明応4年(1495)に小寺氏は御着御所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。
羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正7年(1579)に陥落しました。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征などで軍師として活躍し、天正15年(1587)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。
孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ、福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。
この地は、かつての御着城本丸跡付近に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重隆と父職隆の妻(孝高の母)を祀った黒田家廟所(姫路市指定史跡)があります。
また、南側には、小寺三代城主を祀った小寺大明神があります。
平成21年4月 姫路市教育委員会
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目薬の木。
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黒田官兵衛ゆかりの目薬の木
信長・秀吉・家康に仕えた戦国の智将・黒田官兵衛(1546~1604)は、姫路城で生まれ、40年近くをこの播磨の地で過ごしました。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛の祖父・重隆が、広峯神社で暮らしたとき、「目薬の木」で目薬を作って売り、財を成したと記されています。
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司馬遼太郎の「播磨灘物語」、昔、読んだなあ、面白かったなあ。
相棒、六々守さんは、最近、「播磨灘物語」を読み返したとのこと。
別所氏の居城、三木城も訪ねたとのこと。
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の冒頭、竜雷太が演じる祖父、黒田重隆が登場し、「目薬屋」、「目薬の木」の話も盛り込まれていたと記憶する。
説明板は、「黒田官兵衛ゆかりの」よりも「黒田家ゆかりの」とすべきであろう。

黒田家廟所。
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黒田家廟所
ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)(官兵衛のち如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の二人がまつっている。
黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となった。
姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高と継いだが、1580(天正8)年、秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移った。
職隆の墓所は妻鹿にある。
のちに、黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいる。
ここの墓所は、1802(享和2)年に資材を九州から運んできて造られた。
廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和56年に姫路市指定史跡となっている。
平成25年3月
姫路市教育委員会 姫路市文化財保護協会
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幟旗。
「姫路が生んだ稀代の軍師黒田官兵衛ゆかりの地」と染め抜かれている。 
城主は小寺氏なるも、黒田官兵衛、一色である。
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元気な子供。
黒田官兵衛ごっこをして遊んでいるのであろうか。
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全景。
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国道2号線に架かる横断陸橋を渡る。
「小寺大明神」の覆屋が見える。
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小寺大明神。
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小寺大明神
この地は、永正16年(1519)に小寺政隆が築城したといわれる御着城の本丸跡に位置している。
小寺大明神は、宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、社には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている。
姫路市教育委員会
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「上総さん、この英語の説明書き、ちょっと変やね、Gochaku の途中で改行してしまっているんで、 Goc と haku に、もうひとつは Gochak と u に分かれてしもてます」。
「ほんまやね。原稿がそうなっとったんか、看板屋のチョンボか、はたまた、姫路市教育委員会は何もチェックせずに、検収・受領したのどれかやね。姫路市教育委員会に喝!やね」。

まあ、このミスは姫路市教育委員会のご愛嬌として、ここで「御着」という地名について触れておきたい。
子供の頃から耳慣れた地名であり、駅名なので、然程、変わった名ではないような気がしていたが、由来好きとなった今、「御着」というのは不思議な地名に思えるのであった。
で、その由来を調べてみた。
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御着は古くから開け、地名の起源は神功皇后の時代にまで遡る。
『播磨鑑』によると、その頃の海岸線は今の妻鹿と八家の間を少し北に入った見野の辺りにあった。
その入り江に皇后の舟が接岸していたことから、御着というようになったという。
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「御着」は地名のみならず、名字にもある。
読みは「ごちゃく」、「おろし」。
この名字の人は全国で約40人いるそうである。

五輪塔と石仏。
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『播磨国史跡めぐり/御着城址』 hk-4_f0339895_20195845.jpg
碑文に目を通す。
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この五輪塔及び石仏は旧御国野小学校々庭を発掘調査した時に出土したものを復元したものです
昔 御着城があった時 豊臣秀吉の軍と戦い戦死した御霊の菩提を弔うために建てたものと思います
平成元年七月吉日
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石柱と歌碑。
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石柱には「天川城址 小寺城主之奥都城」と刻まれている。
「奥都城(おくつき)」とは墓所のことである。
ブログを綴るに際し、先ず、この石柱を最初にもって来るべきであったかもしれない。

御着城址は国道2号線で分断されているが、北側は黒田官兵衛一色、南側は小寺氏一色で歴史を物語っていた。

御着城址をあとにして、JR御着駅へ向かう。
途中、金木犀の香りが漂って来る。
「1週間前の10月15日、伊豆国史跡めぐりの中で、伊豆国の総社、三嶋大社を訪ねた際、樹齢1200年の天然記念物 三嶋大社の金木犀を拝ませて貰いました。その時期、関東では金木犀の季節は終わっていて、樹齢1200年の香りは拝めませんでした」。
「関西と関東では、やっぱり、違うんですね。関西は今が真っ盛りです」。
そんな話しながら、香りの主を見付けた。
『播磨国史跡めぐり/御着城址』 hk-4_f0339895_20512214.jpg

こうして、播磨国分寺跡・国分尼寺跡、御着城址を訪ね終えた。
加古川で六々守さんと別れ、神戸での寄り合いの宴へ向かった。
明日22日は、姫路で、国府跡(推定地)と総社探訪である。
宴会での飲み過ぎに注意しよう。

フォト:2016年10月21日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2016-10-25 23:54 | 播磨国史跡めぐり


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