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上総守が行く!(二代目)

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2016年 10月 12日

『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3

10月10日。
安房国史跡めぐり。

安房国分寺跡の遺構が境内に残る国分寺から国分尼寺跡へ。

事前の調べは次の通りであった。
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国分尼寺跡
国分尼寺跡を示す遺構は発見されていない。
国分僧寺の北、約900mの萱野地区に残る「アマンボウ」という地名が「尼坊」にあたるとして、国分尼寺推定地とされている。
目印は「三義民刑場跡/万石騒動 安房三義民記/三義民碑」(館山市国分99)。
「アマンボウ」はその東側付近といわれている。
三義民碑とその東側を眺めることを以て、国分尼寺跡を訪ねたこととする。
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国道128号線を北上し、しばらく走ると左手に郵便局が見えてくる。
その先の角を左折し、北上すると、目印の「三義民刑場跡」が右手に現れた。
『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3_f0339895_1655469.jpg
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「義の伝承碑」や説明板に目を通す武衛さんと南国守さん。
『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3_f0339895_16191262.jpg
「義の伝承碑」。
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説明板。
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市指定史跡
三義民刑場跡
市指定:昭和49年(1974年)2月21日

万石騒動と三義民刑場跡
はなやかな元禄文化の裏側で、大名たちは多額の借金に苦しんでいました。
安房北条藩屋代家の財政再建のために召抱えられた役人川井藤左衛門は、地震の隆起で広がった海岸に新田を開き、用水路を切り開いて、生産量を増やそうとし、保護林の木を切って売るなど、増収を図っていまし
た。
しかし、それは、領地に住んでいる農民たちを無謀に働かせたうえ、やがて、領地の村々に年貢の倍増を命じたため、領民は反発し、年貢を減らすように嘆願運動をはじめました。
農民たちは老中への直訴をおこない、名主3名が処刑されるという大きな犠牲を払いましたが、成功して領民の勝訴となります。
この農民一揆は、一万石の領内で起こったので万石騒動と呼ばれています。
名主3名は三義民と呼ばれ、国分寺に供養碑が建てられ厚く弔われています。
さらに、大正14年(1925年)、当時の館野村長、国分区長が発起人となり、刑場跡に石碑が建てられまた。
命日の11月26日には、現在も国分区民による供養祭が行われています。

事件の流れ
正徳元年(1711年)
 9月  7日 川井藤左衛門、代官高梨とともに6000俵の増税を村々に命じる。
 9月  9日 領内600名の農民が、北条陣屋前に押し寄せて減税を嘆願。
11月  2日 農民たちが大勢で江戸の藩主の屋敷へ嘆願に出る。
11月 13日 川井、6人の名主を北条陣屋で牢屋に押し込める。
11月 20日 農民代表が、江戸で老中秋元但馬守の駕籠に訴状を投げ入れる。
11月 26日 名主3名が処刑され、妻子追放、家財没収される。代官行貝父子も処刑。
12月  4日 江戸で農民代表が老中阿部豊後守に駕籠訴。
         お取り上げになり、勘定奉行の審理がはじまる。
正徳2年(1712年)
7月 22日 判決が下り、川井藤左衛門父子に死罪、林、高梨は追放、藩主屋代忠位は領地没収、
        捕らえられて生き残っていた名主3名は追放となる。

三義民
湊村名主   秋山角左衛門 養秀院一法常感居士
国分村名主 飯田長次郎  貞信院剣室道霜居士
薗村名主  根本五左衛門  萬法院晩叟道解居士

追放された三名主
稲村名主 山口弥市郎
北片岡村名主 小柴庄左衛門
中村名主    吉田九兵衛

平成26年3月 館山市教育委員会
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先ほど、訪ねた国分寺山門入口近くで「三義民墓」をみた。
『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3_f0339895_16553294.jpg
標識は「墓」となっているが、供養碑である。
国分村名主 飯田長次郎の墓は国分寺の墓地にある。

昔も今も税はつらい。
我らがめぐっている国府跡では、その昔、祖庸調が集められ、租は国衙の財源に、庸調は中央政府の財源に、そして、国分寺建設では使役も。
そのような時代にも、義民はいたかもしれない。
江戸時代の義民といえば、下総国印旛郡公津村の名主、佐倉惣五郎が有名だが、安房国にも三義民がいたのだ。

さて、本論の安房国分尼寺跡である。
「アマンボウ」という地名が「尼坊」にあたるとして、国分尼寺推定地とされている。
「アマンボウ」は「三義民刑場跡」の東側付近といわれている。

東側へ行ってみる。
東側には住宅が数軒、建っている。
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東へ向かう細い道の右手は、住宅、そして、ドライビング・レンジ。
『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3_f0339895_17193995.jpg
東へ向かう細い道の左手は数軒の家が続いたあと、畑が広がり、その向こうはの雑木林となっている。
雑木林に囲まれた畑、そんな地形が、如何にも、この辺りに国分尼寺があったんじゃないかなと思わせる。
『安房国史跡めぐり/国分尼寺跡』 ak-3_f0339895_1722822.jpg
再び、「三義民刑場跡」がある一般道へ。
ちょうど、そこに軽四輪が止まった。
「サンゼンジの場所を教えてください」。
「サンゼンジ?よそから来たもので、この辺りのことはよく分からないんですが」。
「薬師霊場、第二番の三善寺です。さっき、国分寺におられたので、薬師霊場を回られているのかと思いまして」。
「薬師霊場ではなく、各地の国分寺めぐりをしていまして...。お役に立てず、済みません」。
皆さんは、熱心に安房国薬師霊場四十八ヶ所をめぐっているのだ。
この行事に何やら親しみを覚えるのであった。

安房国分尼寺跡から国府跡へと向かう。

フォト:2016年10月10日

(つづく)

by kazusanokami-2nd | 2016-10-12 23:58 | 安房国史跡めぐり


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