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上総守が行く!(二代目)

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2016年 07月 12日

『相模国史跡めぐりポタリング/国府・国分寺・総社の所在地に関わる考察』 sg-12

相模国史跡めぐり。
海老名の国分寺跡、平塚の国府跡は平塚、大磯の総社六所神社を中心にめぐった。
国府、国分寺、総社はほぼ同じ区域に所在するのか通例である。
だが、相模国はそうではなく、国分寺は海老名、国府は平塚、総社は大磯とばらばらに所在しているのは何故か。

ということで、ここで、国府・国分寺・総社の所在地に関し、<考察>なる言葉を使うのは少々おこがましい内容ではあるが、考察してみたい。

先ず、jitensha で走りながらの考察を。
相模国の国分寺跡、国府跡、総社はばらばらに所在しているからこそ、jitensha は大活躍。
そう、愛馬に感謝しつつ、海老名から平塚、平塚から大磯を走りながら、何故、分散して所在しているのかを考えた。

海老名では、国分寺の遺構が発見されており、ここに国分寺があったことは確かである。
国分寺の近くに国府があったとするのが通例であるから、この地に国府があったと考えるのは間違いではないだろう。
但し、国府があったことを示す遺構は発見されておらず、あくまで、所在推定地ということに留まってしまうのである。

平塚では、平塚市四之宮付近の湘南新道遺跡で、国庁の脇殿の遺構や「國厨」と墨書された土器が発掘されていることから、平塚市四之宮付近が国府であったと推定されている。
国府跡を示す遺物が発見されているのであるから、平塚が国府であったと考えるのは妥当であろう。

大磯は総社が現存していることから、ここが国府であったと考えるのは間違いではないだろう。
ただ、国司は国内各地の神社を巡って奉幣・参拝するのがその仕事のひとつであったが、後年、平安時代になって、そうした形が崩れ、国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたことから、大磯の相模国総社 六所神社は平安時代に総社となったと考えるのが妥当であろう(後日の調べで分かったこととして、柳田大明神が相模国総社・六所神社になったとの経緯があったことからしても、そう言えるだろう)。
よって、平安時代になって、大磯が国府になったと考えられるのである。

しからば、何故、国府は、海老名、平塚、大磯と二遷、三遷したのかという疑問が頭に浮かぶ。
これについては、後日の調べで、大地震に見舞われたからという説があった。

また、最初の国府が海老名にあったとせば、何故、平塚や大磯に比べ、内陸部にある海老名の地に国府を設けようということになったのかという疑問も頭に浮かぶ。
これについては、同行の武衛さんが「東山道に近かったからではないか」というヒントをくれた。
確かに、武蔵国は、当初、東山道に属し、後に東海道に属することになった。
相模国は、当初、武蔵国に属し、後に、分かれて、相模国となり、東海道に属することになった。
これらのことから、海老名の地に国府を設けようとした理由が分かったような気がする。

ここまでが、jitensha で走りながら、考えたことである。
帰宅後、海老名の国分寺跡、平塚の国府跡、大磯の総社を実見したを踏まえ、あれこれと調べてみた。
その調べで分かったことを綴る前に、ここで、今回の相模国史跡めぐりのフラッシュ・バックを。

国分僧寺(海老名市国分南)。
前方は中門・南回廊基壇跡、後方は七重塔基壇跡。
左手に海老名市立郷土資料館。
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国分尼寺(海老名市国分北)。
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国府跡(平塚市四之宮)。
湘南新道関連遺跡案内版。
後方の寺院は大念寺、国府跡とは無関係ながら、華を添えている。
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総社 六所神社(中郡大磯町国府本郷)。
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さて、jitensha で走りながら考えたことは前述の通りであるが、帰宅後、海老名の国分寺跡、平塚の国府跡、大磯の総社を実見したを踏まえ、あれこれと調べてみた。

先ず、国府の所在地について。
所在地の説は三つではなく、四つの説があることが分かった。

(1)高座郡国府説
相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説。
推定地は現在の海老名市付近。

高座郡について。
現在も高座郡寒川町として「高座郡(こうざぐん)」が存在するが、嘗ては、綾瀬市、海老名市、相模原市、座間市、茅ヶ崎市、藤沢市、大和市の全域もしくは一部が属していた。
読みは「こうざぐん」であるが、古くは「たかくらぐん」で、「高倉」、「太加久良」、「高坐」、「高座」などと記され、「高座」が定着したとのこと。
寒川町には、相模国一宮の寒川神社が鎮座する。
また、茅ヶ崎市には、神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校構内で遺構が発見され、古代高座郡の郡衙跡と推定されている。

(2)大住郡国府説
平塚市四之宮において、遺跡から国庁の脇殿と思われる掘立穴や「國厨」と墨書された土器が発掘されている。
元慶2年(878年)の関東大地震を契機として別の地からこの地に国府が移ったと見られている。
平塚市四之宮では、古代大住郡の郡衙跡と推定されるものも発掘されており、この地は郡衙であった後に国衙に変わったとも考えられる。

大住郡について。
現在の、伊勢原市、平塚市、秦野市、厚木市の全域もしくは一部が属していた。
「大住」のほか、「於保須美」とも記された。

(3)餘綾郡国府説
推定地は、相模国総社の六所神社が鎮座する大磯町国府本郷付近。
六所神社は、元は柳田大明神と称した。
この地は、その昔、柳田郷といい、社伝によれば、崇神天皇の御代に出雲から移住してきた柳田氏が開拓し、氏神として自らの祖神である櫛稲田姫命・素盞嗚尊・大己貴尊を祀ったのが創祀という。
その後、平安時代になって、国府が大住郡から餘綾郡に移され、柳田大明神が相模国の総社となり、一宮 寒川神社、二宮 川勾神社、三宮 比々多神社、四宮 前鳥神社、<五宮格>の平塚八幡宮を勧請し、柳田大明神と合わせて六所神社になったという。

餘綾郡(よろぎぐん、よろぎのこほり)について。
現在の、中郡大磯町、中郡二宮町、平塚市の全域もしくは一部。
律令制下では餘綾郡(よろぎぐん・よろぎのこほり)、近世以降は淘綾郡(ゆろぎぐん)と表記。
古代餘綾郡の郡衙も、現在の大磯町国府本郷付近にあったと推定されている。

(4)千代廃寺近郊説(小田原市)
現在の小田原市千代で見つかった千代廃寺を国分寺と見なし、その付近に初期の国府があったとする説(筆者注1)。
2006年(平成18年)に小田原市千代字南原で行われた千代南原遺跡で、主要建物の基礎(基壇)跡が発見されたほか、公的な施設の存在を示す木簡2点が出土、千代仲ノ町遺跡では、寺院などの厨房施設を意味する「厨」の文字が記された墨書土器が出土するなど、寺院の様子が次第に明らかになってきているという。
但し、この古代寺院は、初期国分寺ではなく、地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視されている。
また、古代寺院跡を国分寺跡とする説の根拠のひとつは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されており、国分寺跡ではないとの見方もある(筆者注2)。

(筆者注1)
小田原市千代は、国府津の北西約3kmに位置しており、国府津との位置関係からして、ここに国府があったとしてもおかしくはない。
(筆者注2)
5月21日に実見した下総国分寺(僧寺)は、東大寺式伽藍配置ではなく、法隆寺式伽藍配置であった。
これは珍しい事例ということになる。

以上が、国府所在推定地、四つの説であるが、餘綾郡国府説の国府推定地は具体的には何処なのか、やはり、大磯の馬場公園がそうなのだろうかと、馬場公園のことが気になる。
ということで、馬場公園のことについて調べていたところ、大磯町のホームページにヒット。
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相模国府祭
場所:神揃山、馬場公園、六所神社
毎年、5月5日に開催されます。
国府祭は、相模の六社が集う祭りで、 神奈川 県の無形民俗文化財に指定されています。
はじまりは今から一千年以上前、地方に国、郡の制度が定められていた時代に、相模国の行政なる長、国司が相模国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願したものといわれています。
神揃山では、相模国の成立にあたり論争の模様を儀式化した神事である座問答が行われ、大矢場(現・馬場公園)では、国司祭や三種類の舞が奉納されます。
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「神揃山では、相模国の成立にあたり論争の模様を儀式化した神事である座問答が行われ」とある。
座問答とは何ぞや?
更に、ホームページに目を通す。
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座問答
大化の改新以前、今の 大磯町 より東に「相武 (さがむ)」、西に「磯長(しなが)」という国があり、その二つの国を合併して相模国が成立しました。
相武の国の最も大きな神社が寒川神社、磯長の国の最も大きな神社が川勾神社であったことから、両国の合併にあたり、どちらが一番大きな神社であるか決めることとなり、論争が起こりました。
この論争の模様が儀式化され神事となって伝わったのが座問答です。
座問答では虎の皮を使い神事を進めます。
虎の皮を上位に進めることは、当神社が相模国一番の神社、即ち一宮であるということを無言で表しており、又、次にそれより上に押し進める事は、いやいや当神社こそ相模一宮であるという意味です。
それを三度繰り返すことは、長い長い論争があったことを表しています。
その仲裁として、比々多神社の宮司様の「いづれ明年まで」という言葉で解決されるわけですが、いずれ明年が1000年以上続いてしまった事を考えると、勝・負のない神様らしい円満解決の模様であると思います。
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「馬場公園が国府跡」の件がクリアになるような記述は見つからなかったが、座問答の誠に興味深い由来を知った。
即ち、「大化の改新以前、今の大磯町より東に『相武 (さがむ)』、西に「磯長(しなが)」という国があり、その二つの国を合併して相模国が成立。相武の国の最も大きな神社が寒川神社、磯長の国の最も大きな神社が川勾神社であったことから、両国の合併にあたり、どちらが一番大きな神社であるか決めることとなり、論争。 この論争の模様が儀式化され神事となって伝わったのが座問答」ということからして、次回、一ノ宮 寒川神社と二ノ宮 川勾神社を是非訪れておかねば、と思うのであった。

そうしたことも踏まえ、こんなポタリング・コースが頭に浮かんだ。
企画名:「再びの、相模国史跡めぐりポタリング」。
コース:
JR二宮駅
~ニ宮 川勾神社
~神揃山
~大磯町郷土資料館(リニューアル中?)にて国府跡推定地調べ
~平塚市博物館/2階展示室「相模国府を探る」コーナー
~平塚市内、県道129号線沿いの国府跡を示す標識探し
~相模川渡河
~相模川左岸河川敷にて<野点>兼昼餉
~一宮 寒川神社
~茅ヶ崎北陵高校構内/高座郡・郡家跡
~熊沢酒造
~JR茅ヶ崎駅

「相模川左岸河川敷にて<野点>兼昼餉」は、山中湖、即ち、富士山の伏流水を源流とする相模川の水を掬ってみたかったという武衛さんの願望をヒントに。

「茅ヶ崎北陵高校構内/高座郡・郡家跡」は、各地の郡家跡探訪にまで手を広げるつもりはないが、海老名市立郷土資料館の館員さんからアドバイスを頂戴したことでもあり、敬意を表して。

「熊沢酒造」は、小田急で海老名駅へ向かう中、新百合ヶ丘在住の盟友、備前守殿に「これこれしかじかにて海老名へ向かい居り候 御領地 新百合ヶ丘に闖入と相成りまする 電子通行手形を頂戴致したく候」と電子飛脚便を遣わしたところ、「相模川を下るなら、茅ヶ崎の熊沢酒造への立ち寄りを薦めまする」との返信があったことによる。
熊沢酒造の所在地を調べてみたところ、茅ヶ崎北陵高校(高座郡の郡家跡所在地)の近くであったことでもあり、コースに組み込んだのであった。

「再びの」は、相模国のほか、既に武蔵国、常陸国、上総国についてもプランが出来上がっている。
「再びの」よりも新たな国をめぐることを優先した方がよいのではいかとの思いもある。
全国の国府跡、国分寺跡、総社をめぐるという、そんな大それた考えは持っていないが、既にめぐったところはさて置いても、新たな国として、関東甲信の、東山道に属する上野国、下野国、信濃国、東海道に属する安房国、伊豆国、駿河国、遠江国は是非めぐってみたいと思っている。

フォト:2016年6月18日

(完)

by kazusanokami-2nd | 2016-07-12 23:58 | 相模国史跡めぐり


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