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上総守が行く!(二代目)

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2015年 10月 31日

『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16

牛久宿。
アヤメ園の河童像、そして、芋銭河童像を巡り、再び、旧街道へ。
郵便局近くから北側に続く宿場通りを眺める。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_718643.jpg
宿場通りをしばらく走ると、「くの字型」のカーブに差し掛かる。
この「くの字型」の角が江戸寄りの「下町」と水戸寄りの「上町」の境目だ。
角の左奥に、正源寺。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_7185058.jpg
正源寺。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_719862.jpg
仁王像。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_7193315.jpg
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_7195133.jpg
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正源寺。
瑞雲山正源寺は、牛久沼のすぐ近く、筑波山を仰ぐことの出来る緑豊かな旧水戸街道沿いにあります。
その縁起は戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592年)、当時の牛久城主の由良国繁公により戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建され、約420年の歴史を刻んできた曹洞宗のお寺です。
当初は、久宝山正源寺と称しておりましたが、江戸時代に入り牛久藩主山口家二代目の弘隆公の時代になると、牛久藩のお膝元だったお寺の門前は水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として整備され、牛久宿として栄えました。
それに伴い、正源寺も牛久宿の安寧や街道を行きかう人々の安全を見守るお寺として弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められております。
(出典:正源寺ホームページ抜粋)
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牛久城主、由良国繁と七観音八薬師のことは、小貝川左岸、旧水戸街道の入り口の慈眼院、そして、若柴宿の金龍寺でベンキョーした。

山門は元は鐘楼門であったようだ。
仁王像は寺院入口の山門両脇の門内に立っているのが通常の姿だと思うのだが、ここ、正源寺の仁王像は露天の仁王像である。

正源寺のことを調べていたところ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」第15巻「雲竜剣」に正源寺が登場するとある。
文春文庫版のページを繰ってみた。
114ページから122ページに掛けて登場していた。
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「まっ、わしのいうことを聞いてもらいたい。今日の昼すぎに此処に着いて、わしは、この近くの正源寺という寺へまいってな・・・・・」。
(中略)
朝になると、左馬之助はのこのこ帳場へ出て行き、主人の柏屋三右衛門に、「ひとつ、また、正源寺へ連れて行ってもらいたいのだが・・・・・」
「ようございますとも」
朝飯は後にまわし、左馬之助は旅籠の主人にともなわれ、ふたたび正源寺を訪れた。
(中略)
そこそこに朝飯をすませた二人は、尻をからげた素足にわらじをはき、雨合羽に笠をととのえてもらい、柏屋三右衛門方を出て、藤代宿へ向かった。
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この続きとして、小貝川の「宮和田の渡し」が登場する。
それについては、本ブログの第8話「藤代宿(下)」で綴った。

正源寺をあとにして、宿場通りを北上する。
宿場通りは北端で国道6号線に合流する。
北端から宿場町の通りを振り返る。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_7202930.jpg
牛久宿の北端、国道6号線との合流点(「とまれ」の標識の左右が国道6号線)。
『旧水戸街道ポタリング/牛久宿(五)』 mt-16_f0339895_18124221.jpg

JR牛久駅から帰途に就く。

フォト:2015年10月20日

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11月7日付け第17話から11月13日付け第23話に亘っては旧水戸街道の別ルートである「布川道」を綴っているので、今回の第16話「牛久宿(五)」の続きは12月23日付け第24話「荒川沖宿(一)」となります。
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by kazusanokami-2nd | 2015-10-31 23:58 | 旧水戸街道ポタリング


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