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2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(下)/山王廃寺跡(Ⅲ)』 sh-8

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾。

前橋市立総社歴史資料館/山王廃寺跡のコーナー。
石製鴟尾、塔心礎・根巻石の展示から古代瓦などの「「出土品から山王廃寺を探る」の展示へ。

出土品のうち、石製鴟尾、塔心礎・根巻石は、山王廃寺跡の現場で実物を見学したことでもあり、総社歴史資料館では、先ず、それらに関わる展示物を見学(参照/本ブログ、第7話)。
続いて、次は、山王廃寺跡から出土した瓦。
山王廃寺跡を見学したときに是非、見たいと思った古代瓦である。
古代瓦は、一昨年の秋から各地の国分寺跡・国分尼寺跡をめぐるようになって以来、最も興味を持ったもののひとつであり、その後、国分寺以前の古代寺院の瓦も幾つか見て来た。

「出土品から山王廃寺を探る」。
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「山王廃寺出土瓦の変遷」について目を通す。
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山王廃寺出土瓦の変遷
山王廃寺出土の軒瓦には、蓮の花などをかたどった様々な文様が施されており、現在までに軒丸瓦15種17笵、軒平瓦9種が確認されています。
最も古い瓦は山王廃寺が創建された7世紀後半まで遡ります。
伽藍全体が整備された7世紀末~8世紀前半には、同じ型から作られた瓦が寺井廃寺(太田市)や金井廃寺(東吾妻町)で出土し、福島県でも同系統の瓦が出土するなど、広い地域に山王廃寺の影響が及んでいました。
8世紀後半に上野国分寺が創建されてからは、山王廃寺をはじめ県内の様々な寺院で、国分寺と同じ型から作られた瓦が多く出土しています。

山王廃寺から出土した瓦の多くは、安中市秋間窯跡群で生産されたもので、山王廃寺と秋間窯の操業者の間に強いつながりがあったと考えられています。
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「山王廃寺から出土した瓦の多くは、安中市秋間窯跡群で生産されたものである...」とある。
古代瓦は勿論のこと、窯跡についても興味がある。
昨年11月、常陸国分寺・国分尼寺の瓦を製造した窯跡である「瓦塚窯跡」(茨城県石岡市八郷町)を訪ねた。
いずれ、安中市の秋間窯跡群も訪ねてみたいものである。
このほか、群馬県内には、国分寺窯跡(藤岡市金井)や笠懸窯跡群、藤岡吉井窯跡群などもあり、いずれ、これらの窯跡も訪ねてみたいものである。

本ブログ第3話で、『東国の寺院と瓦』(吉川弘文館) に「根巻石の弁数が複弁七片蓮華文軒丸瓦と同じであることは偶然の一致であろうか」と書かれていたことに触れた。
ということで、先ず、パネルで図示された山王廃寺の軒丸瓦の蓮華文を仔細に見てみた。
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このパネルは、「1期 山王廃寺創建~伽藍整備期」と「2期 国分寺創建~山王廃寺廃絶期」に区分して図示されており、1期、2期の軒丸瓦・軒平瓦それぞれにナンバリングされている(11番および17番~20番は上野国分寺出土、それら以外は山王廃寺出土)。
ここでは軒丸瓦の蓮華文のみを特記する。
なお、上記文献では、弁の数は「片」が使われているが、これまで見て来た文献や瓦では「葉」が使われおり、以後、本ブログでは「葉」を使うことにする。

1期 山王廃寺創建~伽藍整備期
#1:複弁七葉蓮華文軒丸瓦
#2:一部欠損にて判読不可
#3:一部欠損にて判読不可
#6:複弁八葉蓮華文軒丸瓦
#7:複弁七葉蓮華文軒丸瓦
#8:複弁七葉蓮華文軒丸瓦
2期 国分寺創建~山王廃寺廃絶期
#11(上野国分寺):単弁五葉蓮華文軒丸瓦
#12:単弁六葉蓮華文軒丸瓦
#13:単弁六葉蓮華文軒丸瓦
#14:単弁六葉蓮華文軒丸瓦
#15:変則的文様
#16:変則的文様
#21:変則的文様
#22:変則的文様
#23:変則的文様

「1期 山王廃寺創建~伽藍整備期」では、山王廃寺の蓮華文軒丸瓦は1点を除いて全て七葉である。
「2期 国分寺創建~山王廃寺廃絶期」では、山王廃寺の蓮華文軒丸瓦は六葉である。
こうしたことから、山王廃寺の創建時は根巻石、蓮華文軒丸瓦とも七葉であったということが分かる((1点のみ八葉)。
なお、上野国分寺の蓮華文軒丸瓦については、パネル図では単弁五葉のみであるが、昨年7月に上野国分寺跡隣接の資料館で撮った蓮華文軒丸瓦の写真を参照したところ、単弁五葉のほか、素弁五葉、素弁八葉もあった。
いずれにせよ、これまでに見て来た各地の国分寺以前の古代寺院、あるいは、国分寺出土の蓮華文軒丸瓦の中で、山王廃寺と同じ七葉を見たのはそう多くはない。

パネル図での山王廃寺出土瓦に続いて、次は実物の出土瓦を見学。
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拡大図/その1。
右(手前)/複弁八葉蓮華文軒丸瓦(7世紀)・・・パネル図の1期、#6
央(手前)/複弁七葉蓮華文軒丸瓦(7・8世紀)・・・パネル図の1期、#7
左(手前)/変則的文様の軒丸瓦(8・9世紀)・・・パネル図の2期、#15
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拡大図/その2。
右(手前)/変則的文様の軒丸瓦(9・10世紀)・・・パネル図の2期、#22
央/鬼瓦(8‐9世紀)
左/鬼瓦(9‐10世紀)
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「塔に花咲く塑像群」。
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塑像その1/山王廃寺の仏像。
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山王廃寺の仏像
如来・菩薩・天部
山王廃寺から出土した仏像には様々な種類があり、如来像や菩薩像、神将像、魔神または邪鬼像、比丘像などがあります。
如来や菩薩といった仏像尊像は最も大きく表現されています。
また、神将像はよろいをまとい、顔は険しい表情を浮かべていまs。
修行僧である比丘像は肋骨の一筋一筋を表すなど、とても写実的に造られています。
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右から、手前/如来倚像または菩薩倚像膝部(8世紀)、奥/菩薩像または天部像髺(8世紀)、手前/如来像または菩薩像左脚部(8世紀)、奥/菩薩像胸部。右から、神将像各部位、奥/魔神像または邪鬼右足部(8世紀)、手前/比丘像(8世紀)。

塑像その2/山王廃寺の神将像。
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塑像その3/山王廃寺の人物像、動物像。
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山王廃寺の人物像
山王廃寺からは侍女、胡人などの人物像が出土しています。
侍女とは貴人に仕える女性のことです。
女性像頭部は独特の髪型をもち、「背子」という中国から伝わった衣装をまとっています。
胡人は、古代中国において北方や西域の諸民族を指し、特徴的な衣服が表現されています。
衣服には繧繝彩色(うんげんさいしき)の唐草文が施され、襟の部分の顔料を分析したところ、藍銅鉱という鉱物で青く塗られていたことが分かりました。
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山王廃寺の動物像
山王廃寺では猪や駱駝などの動物像が出土しています。
猪は頭部の像で、鼻先から下あごにかけての部分が残っています。
鼻先は反り、下あごから牙が伸びています。
駱駝は前脚の付け根部分で毛が直線的に表現されているため、立った様子を表していると考えられます。
その他、獅子のたてがみなどを表現した獣家が出土しています。
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上段/塑像 猪頭部・駱駝前脚部・獣毛(8世紀)
中段/塑像 胡人像上半身(8世紀)
下段/壁画(8世紀)

「山王廃寺の創建と終焉~山上碑と上野国替実録帳~」。
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昭和54年の調査で大きな発見がありました。
塔と金堂の中間の場所から「放光寺」とヘラで書かれた瓦が発見されたことです。
この「放光寺」銘瓦以外にも、「放光」、「寺」、「光」と書かれた瓦や「放光」のスタンプが押された瓦が山王廃寺や周辺遺跡から出土しています。
「放光寺」とは、「山上碑」や「上野国替実録帳」に記載のある寺院の名称で、山王廃寺の寺院名が「放光寺」であった可能性が高まりました。
「放光寺」銘瓦は、その作り方や胎土から安中市秋間窯跡群で9世紀に製作されたものと考えられます。
弘仁9年(818年)に関東を襲った大地震で損壊した山王廃寺を補修するための瓦で、瓦の供給先をヘラ書きしたものではないかと推定されています。

「山上碑」は高崎市山名にある古碑で、隣接する山上古墳とともに特別史跡に指定されています。
碑文には「放光寺」の僧である「長利」が、母の「黒売刀自」を供養するために辛巳年(681年)に碑を建てたことが記されており、この頃にはすでに「放光寺」が存在していたことを示しています。

「上野国替実録帳」は長元3年(1030年)の上野国司の交代の際に作成された引継ぎ書の草案で、当時の上野国の様子を伝える貴重な資料です。
この中で「放光寺」は檀越(だんおつ、だんえつ)からの申請によってすでに「定額寺」から外れていたと記載されています。
「定額寺」とは、国から寺格を与えられていた有力寺院を指しますが、11世紀の初め頃にはその寺格から離れていたとされることから、すでに「放光寺」は衰退していたと考えられます。

これらの文字資料に見られる「放光寺」の創建や衰退の時期も、山王廃寺の発掘調査の成果と矛盾せず、山王廃寺を「放光寺」とする可能性は高いと言えるのではないでしょうか。
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パネル写真。
右/放光寺文字瓦、山上古墳、山上碑。
央/山上碑金石文、山上碑拓影図。
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山上古墳と山上碑については、昨年12月に訪ね、この目でじっくりと見学した。
そのときのことは、マイ・ブログで縷々綴った。
『上野国史跡めぐり/上野三碑/山上碑』

文字瓦「放光寺」」(9世紀)。
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是非、見たかった「放光寺」の文字瓦なので、更に、アップで。
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文字瓦「放光」」(9‐10世紀)。
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各種文字瓦。
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下段、左/「木葉文」瓦(7‐8世紀)、右/文字瓦「薗田」(8‐10世紀)。
中段/文字瓦「百・千・〇」(7‐8世紀)。
上段、左/「法輪文」瓦」(8‐10世紀)、右/文字瓦「〇麻呂」。

「放光寺」文字瓦に関わる説明書きに「弘仁9年(818年)に関東を襲った大地震で損壊した山王廃寺を補修するための瓦で、瓦の供給先をヘラ書きしたものではないかと推定されています」とある。

昨今、地震が起こる都度、古文書による過去の地震研究も話題となる。
弘仁9年(818年)の大地震を調べてみたところ、892年(寛平4年)、菅原道真の編纂により完成した歴史書『類聚国史』に「弘仁九年七月に東国で大規模な地震が発生した。翌八月には被害をうけた諸国へ朝使を派遣して、損害の程度を調査するとともに、賑給(米塩の支給)を行い、さらに詔を布告して、租調免除、正税による家屋修理の補助および死者のすみやかな埋葬を指示した。当時は疫病が流行しており、九月に入ると朝廷では七月の地震と疫病を天の咎懲・災妖と捉え、国分寺において金剛般若経を転読して除災を図り、未納租税の免除を令した」(現代語訳)との記述があるという。

地震は歓迎されるものではないが、地震損壊補修のために焼かれた瓦のヘラ書き文字「放光寺」銘瓦が出土した山王廃寺跡と、辛巳年(681年)に建立された山上碑に刻まれた「長利僧母為記定文也 放光寺僧」の「放光寺」が繋がったのは地震の<お陰>ということになる。

山王廃寺の伽藍配置は法起寺式であることは先に述べたが、伽藍形式とは別に、古代寺院を瓦の型式で、川原寺系や山田寺系などに系統づけることがある。
然らば、山王廃寺は何れの系統であろうかと調べてみた。
『古代の東国①前方後円墳と東国社会』(吉川弘文館))において、「山王廃寺の創建期瓦の型式は山田寺系」との記述を見付けた。
関東で最古といわれる古代寺院、龍角寺(千葉県印旛郡栄町)と同じ山田寺系である。
龍角寺は小生の大好きな古代寺院であり、山田寺、龍角寺、山王廃寺が繋がり、何だか嬉しくなった。

更に、同書を読み進むと、こんな記述もあった。
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寺の名となった「放光」とは「仏が光明を放つ」の意味である。
それまで草屋根しか見たことのなかった人々は、瓦を戴き、石製の鴟尾を乗せた重厚な金堂、天を衝く塔、光放つ金銅仏に度肝を抜かれたに違いない。
そして、長く続いた古墳時代の終焉と、新たな時代の幕開けを東国の民にいやがうえにも実感させたはずである。
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パネル写真、左/上野国替実録帳(部分)。
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定額寺
放光寺、
件寺、依氏人申請、
不為定額寺、仍除放己了者
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「上野国替実録帳」は長元3年(1030年)の上野国司の交代の際に作成された引継ぎ書の草案で、当時の上野国の様子を伝える貴重な資料です。
この中で「放光寺」は檀越(だんおつ、だんえつ)からの申請によってすでに「定額寺」から外れていたと記載されています。
「定額寺」とは、国から寺格を与えられていた有力寺院を指しますが、11世紀の初め頃にはその寺格から離れていたとされることから、すでに「放光寺」は衰退していたと考えられます。
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国司交代引継ぎ書である「上野国交替実録帳」なるものが存在することを初めて知った。
放光寺を定額寺から外してほしいとの願いが出されたということは、その当時、寺は相当に荒れていたのであろう。
何故、荒れていったのであろうか。
いわば国営である各地の国分寺が律令制の衰退と共に消滅していったのと同様に、 国から寺格を与えられていた有力寺院である定額寺のひとつ、放光寺も衰退していったということかもしれない。

こうして、山王廃寺の創建から終焉まで見届けた訳であるが、終焉はやはり寂しい。
放光寺の名の通り、光を放っていた創建時の寺院、そして、放光寺の僧、利長が勤めていた頃を想像しながら、山王廃寺のコーナーの見学を終えた。

フォト:2017年1月27日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:38 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(下)/山王廃寺跡(Ⅱ)』 sh-7

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾。

前橋市立総社歴史資料館。
総社古墳群のコーナーから山王廃寺跡のコーナーへ。
先ず、山王廃寺をはじめとする上野国の古代寺院に関する<序>の展示を見学。
続いて、山王廃寺の詳細が展示されたコーナーへ。
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堂宇の棟を飾る鴟尾。
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パネル上段左・央/山王廃寺石製鴟尾、大寺廃寺石製鴟尾(鳥取県伯耆町)。
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パネル上段右/鴟尾の部位・名称。
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パネル中段/(鴟尾の事例として、左から)東大寺大仏殿、唐招提寺金堂、平城京大極殿、平安京大極殿(拡大写真、省略)。

パネル下段。
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鴟尾は古代中国を源流とした棟飾りです。
朝鮮半島を経由して、飛鳥時代に仏教文化とともに日本に伝えられ、寺院の主要な建物のほか、平城京や平安京の宮殿などの棟を飾りました。
鴟尾は瓦製が多く、ほかに石製や金銅製、木製のものもあったことが文献から知られています。
現存する石製の鴟尾は、山王廃寺に残る2体と鳥取県大寺廃寺の1体が知られているだけです。
山王廃寺の石製鴟尾は非常に丁寧に加工されており、それぞれ形状や石材がことなるため、別の建物の棟に置かれていた可能性が指摘されています。
山王廃寺では、石製鴟尾のほか、瓦製の鴟尾も出土しています。
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山王廃寺跡出土の石製鴟尾A(山王廃寺跡展示)、石製鴟尾B(個人蔵)。
※山王廃寺跡出土品展示コーナーのパネル写真拡大図。
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現存する石製鴟尾については、本ブログ第3話で縷々述べたが、ここでもう一度、<おさらい>をしておこう。

現存する石製鴟尾は、山王廃寺の2体と大寺廃寺(鳥取県伯耆町)の1体のみである。
大寺廃寺の石製鴟尾について:
・総社歴史資料館の展示パネルでその写真を見ることが出来る。
・鳥取県伯耆町のホームページでもその写真を見ることが出来る。
山王廃寺の石製鴟尾について:
・石製鴟尾Aの実物は、山王廃寺跡(日枝神社)で見ることが出来る。
・石製鴟尾Bの実物は個人蔵である。
・石製鴟尾A・B一対の姿は、総社歴史資料館展示の、実物大の複製で見ることが出来る。
これらの石製鴟尾の寸法や重量の記載はないが、実物もしくは複製を眺めながら、その加工や屋根への搭載には相当の技術を要するであろうなと加工や搭載作業をしている姿を想像するのであった。

石製鴟尾Aは角閃石安山岩、石製鴟尾Bは輝石安山岩が出来ているとのこと。
一対の鴟尾でありながら、石の種類が異なっている。
何故、そうなのか?
それは今後の宿題である。

天高くそびえる建物~塔~。
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本尊を安置する金堂とともに、天にも届きそうな壮大な屋根を重ねた塔は、仏教という新しい文化に接した人々を圧倒したことでしょう。
心柱を支える塔心礎は、東西3m・南北2.5m・厚さ約1.5mの巨石で、釈迦の遺骨を納める舎利孔や環状の溝、ほぼ東西南北に沿って刻まれた十字の溝など、丹念に加工されています。

塔が建つ基壇の周囲には玉石と白色粘土を置き、基壇の外側には瓦積の装飾が施されていました。
山王廃寺の基壇の規模は畿内の有力寺院と比較しても遜色のない大きさと言えます。
また、塔の内部では、蓮をかたどった根巻石を心柱の根元にめぐらせ、後には塑像群が置かれるなど、堂内は華やかに飾られていたと考えられています。

様々な塔
左から、法起寺三重塔、法隆寺五重塔、(???)五重塔、室生寺五重塔

主要寺院の塔の基壇規模一覧
(名称/場所/一辺の規模)
山王廃寺 群馬県 約13.6m
飛鳥寺 奈良県 約12.0m
若草伽藍塔 奈良県 約15.9m
尼寺廃寺塔 奈良県 約13.5m
山田寺塔 奈良県 約12.8m
川原寺塔 奈良県 約11.7m
法隆寺五重塔 奈良県 約13.8m
(以下、略)
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根巻石(複製)。
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根巻石(複製)
7世紀 山王廃寺
根巻石使用状況推定復元図
金澤吉茂1983「古代上野国における石造技術についての一試論」
『群馬県立歴史博物館紀要』より転載
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塔心礎。
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塔心礎石と根巻石については、本ブログ第3話で縷々述べたが、ここでもう一度、<おさらい>をしておこう。

山王廃寺の心礎は「壇中式心礎」である。
飛鳥時代から白鳳時代の古い段階では、中心柱は掘立柱形式で、心礎は地中深く埋められている「壇中式心礎」であった。
その後、「地上式心礎」が一般的になった。
また、心礎に舎利孔をもっているのも古い段階の心礎の特徴である。

山王寺跡で見学した実物の根巻石の蓮の花弁は一部が欠けていたが、総社歴史資料館の複製は七弁がくっきりと再現されている。
360度の円がほぼ均等に7分割されている。
360は7では割り切れないが、どうやって均等に7分割したのであろうか。
数学的に?それとも現場合わせで?
いずれにせよ、精巧に細工されている。

本ブログ第3話で、『東国の寺院と瓦』(吉川弘文館) に「根巻石の弁数が複弁七片蓮華文軒丸瓦と同じであることは偶然の一致であろうか」と書かれていたことに触れた。
この書籍を読んだときに、是非、山王廃寺の複弁七片蓮華文軒丸瓦を見てみたいと思った。
次は、いよいよ、その山王廃寺跡出土の瓦のコーナーである。
楽しみ!

フォト:2017年1月28日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:37 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(下)/山王廃寺跡(Ⅰ)』 sh-6

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾。

前橋市立総社歴史資料館。
総社古墳群のコーナーの見学を終え、山王廃寺跡のコーナーへ。
山王廃寺跡に関わる展示は、出土瓦、出土塑像、石製鴟尾、塔心礎、山上碑関連など、盛りだくさん。
順を追って見学。

よみがえる幻の白鳳寺院 山王廃寺。
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日本へ仏教が伝来したのは6世紀半ばと言われ、ヤマト王権内での崇仏派と排仏派との権力争いを経て、本格的に仏教が受容されました。
これ以降、大和の諸豪族が競って寺院を建立し、畿内一円へ、そして、地方へと、新しい文化である仏教と寺院造営の波が広がっていきました。

仏教文化が地方に及ぶ中、最初にそれを取り入れたのは各地の最有力豪族でした。
そこで養われた技術によって、次の有力豪族が寺院の建立に着手しました。
寺院という新しい建築様式は、初めて目にする人々を圧倒し、造営した豪族の権威を強く印象付けたことでしょう。

現在、群馬県では、上植木廃寺(伊勢崎市)、寺井廃寺(太田市)、金井廃寺(東吾妻町)など多くの寺院跡が発見されていますが、山王廃寺は最も古い寺院跡と考えられ、その規模や内容も他に例をみないものです。
これは山王廃寺が総社古墳群に葬られた豪族によって築かれた寺院であることと無関係ではありません。
これまでの発掘調査の成果などから山王廃寺がどのような寺院であったのか見ていきましょう。
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発見!山王廃寺。
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パネル、右/古代の上野国。
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7世紀半ば以降、中央政府は、天皇を中心とした国づくりを進める中で、全国を60余りの国に分け、各国に国府を置きました。
国はさらに郡・里に細分され、各郡に郡衙を置きました。
国府には中央から国司が派遣され、郡衙では各地の支配をしてきた地方豪族が郡司に任命されました。
また、都と地方を結ぶ連絡道である「駅路」を整備して、交通・通信網を整えました。
現在の群馬県に相当する上野国には14の郡があり、中央には東山道が走っていました。
これまでの発掘調査によって、新田郡や佐位郡、多胡郡などで郡庁や正倉といった郡衙の施設の跡が発見されています。

上野国府は現在の元総社町周辺に置かれていたと推定され、周辺に上野国分寺や総社神社が置かれるなど、総社~元総社の地は古代上野国の政治・経済・文化の中心拠点であったと考えられています。
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(上総の独り言:上野国史跡めぐりの第一弾で、上野国府跡(国庁推定地/宮鍋神社)、上野国分寺跡、国分尼寺跡、総社神社、東山道跡などをめぐったなあ。あれは昨年7月のことだったなあ...。)

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古代寺院(位置番号/赤)
①山王廃寺 ②上野国分寺 ③上野国分尼寺 ④上植木廃寺
⑤寺井廃寺 ⑥金井廃寺 ⑦上西原遺跡 ⑧宇通廃寺
⑨十三宝塚遺跡 ⑩黒熊中西遺跡 ⑪緑野寺

国府・郡衙(位置番号/白)
①上野国府 ②佐位郡衙 ③新田郡衙 ④片岡郡衙 ⑤多胡郡衙

古碑(位置番号/緑)
①山上碑 ②多胡碑 ③金井沢碑 ④山上多重塔

駅路推定地(位置番号/青)
①長倉駅(信濃国) ②坂本駅 ③野後駅 ④群馬駅
⑤佐位駅 ⑥新田駅 ⑦足利駅(下野国)

パネル、左/古代寺院を掘る~姿を現した山王廃寺~。
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山王廃寺は、大正時代初めに塔の心柱を支える塔心礎が偶然発見され、その存在が明らかになりました。
昭和~平成の調査の結果、一辺約80mの回廊に囲まれ、北に講堂を置き、南側に塔と混同が東西に建てられていたことが分かりました。
講堂の北側には庇を持つ掘立柱建物(北方建物)が検出されて、僧坊または食堂と推定されています。

これらの建物以外に、中心伽藍の建物とは向きを変えて建てられた建物も多く確認されており、山王廃寺の創建以前に建てられていた豪族の居館や郡衙の前身施設であった可能性が指摘されています。
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続いて、山王廃寺跡出土品の展示コーナーへ。

フォト:2017年1月28日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:36 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(中)/総社古墳群』 sh-5

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾。

前橋市立総社歴史資料館。
総社古墳群のコーナー、山王廃寺跡のコーナーと順を追って見学。

総社古墳群。
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古墳時代、「上毛野(かみつけ)」と呼ばれた群馬県は、屈指の古墳王国と言われます。
昭和10年の調査では、群馬県内で8,423基の古墳が確認され、現在は12,500基以上に上ると推定されています。
その量ばかりでなく、古墳の規模や豊かな副葬品にみられる質も卓越しており、古墳時代の日本列島を語る上でか欠かすことのできない地域と言えます。

その要因の一つには、群馬の地に恵まれた自然環境が挙げられます。
周囲を高い山に囲まれ、山地から流れ出す大小様々な河川は、肥沃な土壌と豊富な水を運んで平野部を潤します。
弥生時代の終わりころから、、東海地方からの新たな農業技術の導入によって平野部の開発が進み、古墳時代以降、生産力は飛躍的に向上しました。
このような経済力を背景として、「上毛野」の豪族たちは急速に力を蓄え、その権威を象徴するような数々の古墳が築かれました。

総社古墳群h5世紀後半から造られ始め、地域の開発と農業生産によって力を付けた豪族の代々の墓と考えられます。
総社古墳群がどのようにして生まれ、発展していったのか、見ていきましょう。
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榛名山東南麓に築かれた古墳群~総社古墳群~。
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パネル、右/古墳時代の上毛野。
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群馬県で古墳が造られはじめたのは、古墳時代前期の4世紀にさかのぼります。
最初に東海地方を起源とする前方後円墳が造られ、次いで畿内を起源とする前方後円墳が造られます。

古墳時代中期に入ると古墳の規模は巨大化し、浅間山古墳(高崎市)や東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳が造られます。
その後も保渡田古墳群(高崎市)などで大型古墳が築かれ、総社古墳群が造られ始めるのもこの時期です。

古墳時代後期になると横穴式石室が取り入れられ、地域ごとに分散して大型の古墳が造れらます。

7世紀に入ると前方後円墳は造られなくなって、方墳や円墳に変わり、大型古墳は姿を消しますが、総社古墳のみ引き続き大型古墳が造られます。
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(上総の独り言:東日本での第1位は太田天神山古墳(群馬県太田市内ケ島町)、第2位は舟塚山古墳(茨城県石岡市北根本)、第3位は浅間山古墳(群馬県高崎市倉賀野)。舟塚山古墳を訪ねたときに、東日本の第1位は太田天神山古墳と知り、是非、訪ねてみたいと思ってから久しい。今年中には訪ねておきたい。保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町・井出町)は既に訪ねた。葺石や円筒埴輪を施して復元した八幡塚古墳は印象的だったなあ...。)

パネル、左/総社古墳群のうつり変わり。
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総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現・利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群です。
総社古墳群は、その規模や卓越した技術、優美な出土品などから、古くから注目されており、東国を代表する古墳群の一つに数えられています。
現在は前方後円墳3基、方墳3基、円墳3基が残されています。

大型古墳の分布を見ると、その立地から南北二群に分けられ、南支群には王山古墳・王河原山古墳(消滅)、北支群には遠見山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳があります。

古墳の移り変わりとしては、先ず、5世紀後半に北支群に遠見山古墳が築かれ、その後、6世紀初頭に南支群の王山古墳や、横穴式石室を持っていたと考えられる王河原山古墳が続きます。

以降は、北支群で大型古墳が造られ、総社二子山古墳(6世紀後半)⇒愛宕山古墳(7世紀後半)⇒宝塔山古墳(7世紀中葉)⇒蛇穴山古墳(7世紀後半)へと移り変わります。

(本項は、写真からの展示パネルの文字読み取り不可にて、パンフレット「総社古墳群」より抜粋)
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群馬県の主な古墳の変遷。
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この資料は、前方後方墳、前方後円墳、方墳、円墳の時代別変遷や所在地域が一目瞭然で、誠に分かり易い資料である。
所在地域は、上段左から;
甘楽=鏑川流域=、緑野=鮎川・神流川流域=、碓氷=碓氷川流域=、群馬=保渡田周辺、総社周辺、綿貫周辺、佐野・倉賀野=、那波=朝倉周辺、玉村周辺=、勢多=赤城山南麓=、佐位、新田=西部、東部=、山田、邑楽。
年代は、左端、縦に上から;
300年、400年、500年、600年、700年の年代。
古墳の型と規模は;
前方後方墳、前方後円墳、方墳、円墳の形と共に大小で規模も図示。

総社古墳群は、左から五つ目の群馬=総社周辺=の欄に、遠見山・王山・総社二子山(いずれも前方後円墳)、愛宕山・宝塔山・蛇穴山(いずれも方墳)が図示されている。
群馬=総社周辺=の欄には、そのほかに、三津屋・南下A・南下B(いずれも円墳)も図示されている。

このような形で図示した古墳の資料はないものかと図書館で探してみたところ、『全国古墳編年集成』(石野博信編、雄山閣出版)なるものがあり、時々、参照している。

総社古墳群。
①遠見山古墳(パンフレット「総社古墳群」抜粋)
遠見山古墳は墳丘全長80mを超える大型の前方後円墳である。
これまで数度調査が行われ、墳丘の裾や墳丘を巡る周堀が確認される。
主体部は竪穴式石室と考えられる。
円筒埴輪などが出土しており、周辺では人物埴輪なども採集されている。
周堀の底には6世紀初頭の榛名山の噴火で噴出した火山灰が積もっており、出土した埴輪の年代などから、古墳の築造時期は5世紀後半と考えられ、総社古墳群の中で最も古い古墳である。
本古墳はこの地域の開発に成功した豪族の墓と考えられる。

(上総の独り言:群馬県内の遺跡を見学する上で、榛名山が噴火した時期を知っておくことは大事なことだ。)

②王山古墳(パンフレット「総社古墳群」抜粋)
王山古墳は墳丘全長75.6mmを超える大型の前方後円墳で、6世紀初頭に造られたと考えられる。
昭和47~48年に墳丘全体が調査され、古墳の様子が明らかになった。
墳丘の築造方法としては、まず盛土で二段に墳丘の形を作った後、その外側に砂や礫が混じった川原石を詰め、さらに外面に大ぶりな自然石の葺石で飾る。
死者を埋葬する主体部は横穴式石室で、後円部の基壇上に作る。
石室の全長が16mと非常に細長く、玄室は赤く塗られていた。
出土品には、円筒埴輪や大刀・盾といった器財埴輪のほか、矢を持ち歩くための容器である胡籙(ころく)の出土が注目される。
本古墳は横穴式石室という新しい埋葬方法を採用しており、東日本で最も古いものの一つである。
初期の横穴式石室を持つ群馬県内の古墳としては、前二子山古墳(前橋市)や梁瀬二子山古墳(安中市)などがある。
横穴式石室は、畿内のヤマト王権で取り入れられた新しい葬制で、これをいち早く取り入れた群馬県中西部の豪族たちは、中央との強いつながりを持っており、先進的な技術や文物を取り入れることができたと考えられる。

(上総の独り言:石室は竪穴式から横穴式に変わりつつある時期だったのだ。玄室は赤く塗られていた。これは装飾古墳と考えてよいのかな?宿題とする。)

③総社二子山古墳。
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総社二子山古墳は、6世紀後半に造られた墳丘長90mを超える大型の前方後円墳で、総社古墳群中、最大の規模を誇ります。
墳丘の斜面には葺石が置かれ、墳丘全体に埴輪が立てられていたと考えられます。
石室は後円部と前方部の2ヶ所にあり、後円部と前方部の順に造られたと考えられます。
古墳の副葬品には、勾玉や耳環、刀子、大刀などがあります。
特に、頭椎大刀(かぶつちのたち)は、現品の所在は不明ながら、詳細な絵図が残されており、様々な装飾が施された非常に優美な大刀で、綿貫観音山古墳出土の大刀と非常によく似ています。
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頭椎大刀(かぶつちのたち)/復元。
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(上総の独り言:頭椎大刀に興味あり。)

④愛宕山古墳(パンフレット「総社古墳群」抜粋)
愛宕山古墳は墳丘全長56mの方墳で、7世紀前半の築造と考えられる。
これまでの前方後円墳が姿を消し、方墳という四角い形状の古墳となる。
墳丘は二段築成で、墳丘斜面には噴石で飾られていたと考えられる。
また、墳丘に埴輪は立てられていなかったと見られる。
石室は巨大な自然石を積み上げた石室で、羨道が土砂で埋まっているため、石室全体の規模は不明だが、玄室長で約7mを測る巨大な石室である。
壁面の自然石も部分的な加工が行われていると考えられ、石室を造る技術が進歩していることがわかる。
また、玄室の奥壁寄りの中央には、精巧なつくりの凝灰岩製の剥抜式家形石棺が置かれている。
剥抜式家形石棺は畿内で有力者の古墳に採用される例が多く、東日本全体では宝塔山古墳の家形石棺を含めてわずか数例を数えるのみである。

⑤・⑥宝塔山古墳・蛇穴山古墳
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⑤宝塔山古墳。
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宝塔山古墳は、墳丘長約60mの大型方墳で、7世紀半ばに造られたと考えられます。
石室は、これまでのように自然石を積み上げるのではなく、きれいに加工された切石を巧みに積み上げる「載石切組積」手法が採用され、その上に漆喰を厚く塗って石室全体を平らに仕上げています。
玄室の中央には輝石安山岩製の剥抜式家型石棺を置き、脚部の「格狭間(こうざま)」様の加工は仏教文化の影響と考えられます。
石材の精緻な加工やこれを積み上げる技術、漆喰などは、畿内の有力者層の古墳に用いられる技術と共通し、先進的な情報や技術を取り入れることのできる人物が葬られたと推測されます。
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⑥蛇穴山古墳。
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蛇穴山古墳は、7世紀後半に造られた墳丘長約40mの方墳です。
墳丘の周囲には周堀がめぐり、貼石(はりいし)で美しく飾られた中堤を挟んで、さらにその外側にも外周溝をめぐらせ、墳丘を二重の堀で取り囲んでいます。
玄室の両側壁や奥壁、天井石ともそれぞれ一石の巨石で、これを巧みに組み合わせ、その上に漆喰を塗るなど、高度な加工技術を駆使して石室が造られています。
奥壁付近には棺台と見られる砂岩製の大きな切石が置かれています。
蛇穴山古墳も、先進的な技術を導入・駆使して造られた古墳ということができるでしょう。
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(上総の独り言:愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳は方墳。方墳といえば、龍角寺古墳群(千葉県栄町)の岩屋古墳は、一辺約78メートル、高さ約13メートル、三段築成の墳丘をもつ、国内最大級の方墳だ。)

歴史資料館の近くにある宝塔山古墳と蛇穴山古墳は、このあと、見学。
遠見山古墳、王山古墳、総社二子山古墳、愛宕山古墳は、時間の都合上、見学は見送り、次回の楽しみに残しておくこととした。

館内、総社古墳群のコーナーに続き、次は山王廃寺跡のコーナーへと進む。

フォト:2017年1月28日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:35 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 01月 29日

『上野国史跡めぐり/前橋市立総社歴史資料館(上)』 sh-4

1月28日(土曜)。
上野国史跡めぐり第四弾。

山王廃寺から、次の訪問地、総社古墳群と総社歴史資料館へ。

山王廃寺跡から北上し、県道6号線を東進、上越線を跨ぐ陸橋を超えると左手に古墳が見てくる。
総社古墳群のひとつ、宝塔山古墳である。
総社歴史資料館もこの一画にある。
総社町総社交差点を左折し、更に次の信号を左折し、目的地に到着。
西から、宝塔山古墳、前橋市立総社歴史資料館、そして、蛇穴山古墳が並んでいる。

時計を見る。
午後3時10分。
歴史資料館は、午後4時、閉館。
古墳は後回しにして、先ず、歴史資料館を見学することにする。

前橋市立総社歴史資料館。
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山王廃寺の塔心礎のモニュメントが出迎えてくれる。
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宝塔山古墳横穴式石室模型も出迎えてくれる。
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大きなガラス窓を通して、蛇穴山古墳を眺める。
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資料コーナー。
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床写真マップ/総社町とその周辺の図。
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少し拡大して、北東部(右上)/総社古墳群と南西部(左下)/山王廃寺跡の位置関係を確認。
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床写真マップを見ながら、山王廃寺跡から走って来た道や周辺の道路、川、鉄道などをトレースしてみる。

南西部(写真、右下)/山王廃寺跡、その北を東西に走る道は県道6号線、県道6号線沿いの北側にあ大きな工場は日新電機前橋製作所、北西から南東に流れる川は八幡川、北西から南東に走る道は産業道路、県道6号線とクロスする北西から南東に走る鉄道は上越線、その東側を流れる川は天狗岩用水、その東側の赤色星印が現在地/総社歴史資料館と総社古墳群。

拡大図/山王廃寺跡(下端)とその北部周辺の図。
山王廃寺跡のほか、その西側に、都丸高親翁碑や2階屋根に櫓をもつ養蚕農家も確認出来る(現地を訪ねた筆者の目には見えるということではあるが)。
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拡大図/総社歴史資料館(現在地)とその周辺の図。
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現在地/総社歴史資料館の西側に宝塔山古墳、東側に蛇穴山古墳、北西部に愛宕山古墳と総社二子山古墳。

館内は真新しい。
昨年10月1日にリニューアル・オープンしたばかりとのこと。

閉館まで余り時間はない。
総社古墳のコーナー、山王廃寺跡のコーナーと順を追って見学を開始。

フォト:2017年1月28日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-01-29 23:34 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)