2016年 11月 27日

『上野国史跡めぐり/保渡田古墳群/薬師塚古墳』 kk-6

11月26日。
上野国史跡めぐり第二弾/保渡田古墳群探訪。
保渡田古墳群は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つの前方後円墳が集積する古墳群。
二子山古墳、その北東に位置する八幡塚古墳、そして、その北西部に在る寺院、西光寺の北側に薬師塚古墳が位置する。

西光寺。
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境内での瓦や龍コレクションはそこそこにして、本論に。

境内に設けられた説明板に目を通す。
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国指定史跡 保渡田薬師塚古墳
指定年月日 昭和60年9月3日

国指定重要文化財
上野国保渡田薬師塚古墳出土品
指定年月日 昭和14年9月8日

この古墳は前方後円墳で、かなり変形をうけているが、発掘調査の結果では、三段に築かれ、斜面には石垣を葺き、平坦面には円筒埴輪を巡らすことが判明した。
全長105m、高さ6mで、周囲は二重に堀を巡らし、堀を含めた全長は165mを測る。
保渡田古墳群の中で最後に造られ、5世紀末~6世紀初頭の年代が推定される。
後円部頂上には凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された伝承がある。
出土品には、小型の国産鏡・装身具の各種玉類・儀式の際に馬を飾る馬具類があり、中でも馬具は二例を除き鋳造品で、国内に類例のない特殊なものといえる。

平成15年3月30日
群馬町教育委員会
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※筆者注:「群馬町教育委員会」は旧称で、現在は「高崎市教育委員会」。

薬師塚古墳は、或る時代に西光寺の寺領とされたことから、説明文にある馬具類などは盗掘されることなく、残っていたとのこと。(「かみつけの里博物館」学芸員さん談)
なお、これらの出土品は「かみつけの里博物館」で見ることが出来る。
但し、西光寺の寺宝であることから、撮影禁止とのことである。
借り物は撮影禁止となっている博物館や資料館はこれまでにも幾つかあったことでもあり、納得はしているが、しかし、変な約束事とも思えてならない。

薬師塚古墳は、副葬品も含め、埋葬はきちっと行われているが、前方後円墳そのものは未完成となっており、その原因は榛名山の噴火で築造を放棄したと考えられるとのこと。(「かみつけの里博物館」学芸員さん談)

本堂の裏(北側)に墳丘が見える。
本堂の東側の石段を登り、墳丘の頂上へ。

薬師塚古墳は、二子山古墳と同様に、後円部を東、前方部を西にして築造された前方後円墳である。
石段を上り切ったところは、後円部であった。
後円部の頂上から前方部を眺める。
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後円部の頂上には、御堂が築かれている。
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舟方石棺が御堂の前に置かれている。
雨除けのためか、コンクリート造りで覆われている。
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前述の説明文に「凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された伝承がある」とあるが、それ以上の記述はない。
何故、舟形石棺が後円部内の石室ではなく、頂上部に置かれているのか、それは今後の調べごとである。

後円部から前方部を眺める。
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前方後円墳の左側(南側)、本堂のある側の一部が削り取られているように思われる。

フォト:2016年11月26日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-27 23:36 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 27日

『上野国史跡めぐり/保渡田古墳群/竪穴式小石槨』 kk-5

11月26日。
上野国史跡めぐり第二弾/保渡田古墳群探訪。
保渡田古墳群は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つの前方後円墳が集積する古墳群。
これら三つの前方後円墳はこの地を治めた豪族の王の墓。
そして、王に仕えた人たちの墓としてこんな墓もあった。

竪穴式小石槨。
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説明板に目を通す。
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石を使った小さな墓-竪穴式小石槨-
この墓は、井出二子山古墳の西側で10基発見されました。
この場所は、保渡田古墳群(井出二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)に葬られた王に仕えていた人たちの墓地だったのです。
墓には、6世紀、榛名山が大噴火した際に出た石(角閃石安山岩)を使用し、噴火後の6世紀に造られたと推定できます。
この遺跡では、この小石槨のほか、5世紀末~6世紀頃に造られた10基の古墳も確認されています。
この古墳をみると、古墳の大きさや、古墳に並べられた埴輪の数・種類に差があり、王に属していた人々には階層があったようです。
小石槨は、古墳のような盛り土は持たず、古墳群(墓域)の中でも河川に近い崖際に造られ、小規模な古墳に埋葬された人たちより低い身分の人たちの墓と推定されます。
また、埋葬空間の規模が80cm程度と小さく、「子供の墓」や「一度埋葬したのち、骨を再び埋葬した墓」であるとの学説もあります。
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説明文にある「井出二子山古墳」は「二子山古墳」と同義である。

遺跡配置図。
竪穴式小石槨は、図の左端、東谷川の左岸の赤色マークで示されている
赤色マークの中には縦に並ぶ竪穴式小石槨を示す五つの点がある。
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図全体としては、中央に二子山古墳、北に保渡田Ⅶ遺跡、西に北畑遺跡が位置している。
1)中央/二子山古墳について:第4話で縷々綴った通りである。
2)北側/保渡田Ⅶ遺跡について:
第4話掲載の二子山古墳の説明板の中で、「(二子山古墳の) 外堀の北西には、大量の人物埴輪を出土した保渡田Ⅶ遺跡があり、この古墳と密接な関わりをもつと考えられる」と解説されている。
3)西側/北畑遺跡について:
第4話掲載の二子山古墳の説明板の中で「古墳に寄り添う群集墳/二子山古墳の西側には、同時期の群集墳(小型古墳の集合)がある。 帆立貝形古墳・円墳・円筒埴輪棺の3階層が認められ、二子山古墳の豪族を支えた人々の墓と考えられる」と解説されている。

図、左側の、北畑遺跡をアップで。
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帆立貝形古墳や円墳がピンクとブルーで色分けされている。
図、下段の説明によれば、
ピンク・・・6世紀初めにあった榛名山大噴火前に造られた古墳
ブルー・・・6世紀初めにあった榛名山大噴火後に作られた古墳
となっている。

竪穴式小石槨に話を戻す。
図、右上に「井出北畑遺跡で発見したものを移築保存 平成9年度土地改良事業で発掘調査」とある。
冒頭の写真の竪穴式小石槨は二子山古墳の東側で見たものであるが、元は二子山古墳の西側の北畑遺跡で発掘されたものがここに移設されたようだ。

前方後円墳や帆立形古墳、円墳、方墳は見たことがあるが、竪穴式小石槨は初めて見た。
保渡田古墳群は中身が濃い!

このあと、「かみつけの里博物館」、薬師塚古墳の順にめぐることになるが、本ブログでは、編集の都合上、薬師塚古墳、「かみつけの里博物館」の順に掲載することとしたい。

フォト:2016年11月26日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-27 23:35 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 27日

『上野国史跡めぐり/保渡田古墳群/二子山古墳』 kk-4

11月26日。
上野国史跡めぐり第二弾/保渡田古墳群探訪。
保渡田古墳群は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つの前方後円墳が集積する古墳群。

八幡塚古墳から、その南西に位置する二子山古墳へ向かう。

二子山古墳。
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説明板に目を通す。
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保渡田古墳群 二子山古墳

国指定史跡 保渡田古墳群とは
保渡田古墳群は、榛名山東南の麓の井野川上流域にある3基の前方後円墳の総称である。
それらは、5世紀後半から6世紀初頭にかけて、二子山古墳(墳丘長108m)→八幡塚古墳(墳丘長96m)→薬師塚古墳(同105m)の順で造られた。
当時の東日本において、きわめて優勢であった豪族たちの墓所として国史跡に指定されている。

二子山古墳の概要
■規模・構造
本古墳群で最初に造られた二子山古墳は、墳丘長108mの前方後円墳で、まわりに内堀と外堀を巡らしている。
外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約30,000m2と広大である。
また、内堀の中には円形の中島(祭司場)が4つ存在している。
墳丘の頂上に設けられた埋葬史跡は、大型のの舟形石棺である。
■埴輪の配列
この古墳からは多量の埴輪片が発掘され、おそらく数千本の円筒埴輪が墳丘や内堤・外堤に並べられていたと推定される。
器財・家・人物・動物をかたとった形象埴輪の破片もみられ、内堤の北側に並んでいたようだ。
外堀の北西には、大量の人物埴輪を出土した保渡田Ⅶ遺跡があり、この古墳と密接な関わりをもつと考えられる。
■古墳に寄り添う群集墳
本古墳の西側には、同時期の群集墳(小型古墳の集合)がある。
帆立貝形古墳・円墳・円筒埴輪棺の3階層が認められ、二子山古墳の豪族を支えた人々の墓と考えられる。
■二子山古墳の整備
本古墳の整備方法は、発掘前の墳丘の形状をできるだけ変えない手法で行い、堀の部分のみ形を再現した。
北方にある八幡塚古墳は築造時の姿に復元されているが、それと本古墳を見比べることで1500年間の時の流れを体感してほしい。
この二子山古墳も往時は葺石をほどこした「石の山」であったが、次第に草木に覆われ、今のような形に変化したのである。
■二子山古墳の豪族像
本古墳は、南東1kmにある豪族居館(三ツ塚Ⅰ遺跡)を拠点として、榛名山麓の井野川流域を統治した豪族の墓である。
保渡田古墳群で最初に築かれたことから、この地に進出し、山麓水源地帯を押さえて大規模な農業経営を行った人物が埋葬されていると考えられる。
当時の群馬県地域(上毛野、かみつけ)は、わが国の中でも優勢な地域のひとつであった。
二子山古墳の被葬者は、その上毛野を代表する人物であり、政治の中心であったヤマト政権(奈良県・大阪府地域)や朝鮮半島諸国とも深い関わりを有していたと考えられる。
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保渡田古墳群航空写真。
手前の緑地が二子山古墳(整備前)。
右奥(北東)の枯れ草色が八幡塚古墳。
左奥(北)の寺院の後ろに位置する森が薬師塚古墳。
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二子山古墳発掘調査時の航空写真(平成15年度)。
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二子山古墳復元模型(縮尺 100分の1)。
八幡塚古墳と同様に、こちらも四つの中島がくっきりと。
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能書きはこれくらいにして、実物を眺めてみよう。
東側からの姿。
墳丘に一部、白く見えるのは、数日前に降った雪。
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南側からの姿。
右端(北東)の木立の奥に、八幡塚古墳の姿が。
背後(北)の山並みは榛名山麓。
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説明文の中に「当時の群馬県地域(上毛野、かみつけ)は、わが国の中でも優勢な地域のひとつであった」とある。
これは、群馬県が自身の史跡を<自慢>するための記述のように読み取れなくもないが、そうではない。
事実、群馬県にはそれを示す史跡が多いのである。
では、何故、「わが国の中でも優勢な地域のひとつであった」のだろう。
それは「政治の中心であったヤマト政権(奈良県・大阪府地域)や朝鮮半島諸国とも深い関わりを有していた」からである。
では、何故、それらの地域から相当に離れたこの地がそのように発展したのであろうか。
これば今後のベンキョー、ケンキュー課題である。

フォト:2016年11月26日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-27 23:34 | 下野国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 27日

『上野国史跡めぐり/保渡田古墳群/八幡塚古墳(Ⅲ)-人物・動物埴輪群-』 kk-3

11月26日。
上野国史跡めぐり第二弾/保渡田古墳群探訪。
保渡田古墳群は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つの前方後円墳が集積する古墳群。

保渡田古墳群の、殊に、八幡塚古墳を訪ねてみようと思った動機は、大きく言って二つあった。
いずれも復元ではあるが、一つは葺石、もう一つは人物・動物埴輪群像である。
葺石の姿を含む八幡塚古墳の各部全貌は、前話で綴った通り、十分に見学した。
次は、人物・動物埴輪群像である。
内堤、南東部の、A区形象埴輪配列区へと進む。

人物・動物埴輪群像。
A区形象埴輪配列区、人物・動物埴輪群(復元)。

南東から見た埴輪群。
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西から見た埴輪群。
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南東から見た、西寄りの埴輪群。
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南東から見た、東寄りの埴輪群。
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東から見た埴輪群。
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説明書きに目を通す。
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人物・動物埴輪群像(A区形象埴輪配列区)
内堤の上に、円筒埴輪による区画(約11m x 5m)を設け、54体ほどの形象埴輪(人物や動物・道具類をかたどった埴輪)が置かれていた。
この区画の最初の調査は1929年(昭和14年)に行われたが、出土埴輪の約半分は失われていた。
ここに復元した埴輪は、現行資料や記録類、新たな出土資料を検討したうえ、想定復元したものである。
椅子に座った人々のグループ、立ち姿の人々のグループ、狩りをする人と動物、整列する人や動物のグループなどいくつもの場面が見られ、さまざまな儀礼の様子を表したものだと考えられている。
東日本の人物・動物埴輪でも早い時期に属し、かつ、最も内容が整った事例として知られている。
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発掘された配列区(平成7年 南東より)。
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配列図(右が北)。
各埴輪には、1から54のナンバリングと名称が付記されている。
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西から順に、個々の人物・動物埴輪を見る。
西端の埴輪群。
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手前、左から右へ。
№ 名称
51:男子双脚立像(武人か?)
52:男子双脚立像(力士)・・・・・・この時代から力士がいたのだ。
53:男子双脚立像(武人か?)
54:人物基部
26:盛装男子?双脚立像(その後ろ、27:盛装男子双脚立像、28:甲冑形埴輪、29:甲冑形埴輪)
40:人物基部(その後ろ、41:人物基部、42:人物基部)

西から中ほど、左側の埴輪群。
椅子に座った人々のグループ。
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左から。
№ 名称
5.椅子に座り琴を弾く男子
4.椅子に座る男子
2.椅子に座る男子(中心人物)、その向かいの後ろ姿/1.椅子に座り杯を捧げる女子
3.椅子に座る男子

西から見て、東の奥、右奥の鳥に関わる人物埴輪、その手前の動物埴輪(鳥)、左一列の動物埴輪群(鳥)。
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№ 名称
17:鳥を腕に据える男子・・・目を凝らしてみると、確かに右腕に鳥がとまっている(後ほど、別の角度から)。
21:魚をくわえる鵜・・・・・・目を凝らしてみると、確かに魚をくわえている(後ほど、別の角度から)。
10.鶏
11~16:水鳥(前3体は大型か?)

西から見て、東の奥、右一列の動物埴輪群(馬)、人物埴輪群。
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№ 名称
28.甲冑形埴輪
29.甲冑形埴輪
31~33.飾り馬(大型)
34、35.馬(小型か?)

先ほど、西からみた「№21.魚をくわえる鵜」を南からみた姿。
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⑥先ほど、西からみた「17:鳥を腕に据える男子」を東からみた姿。
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⑦南からみた、東端、中列、人物埴輪(狩人)と動物埴輪(猪、犬)。
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№ 名称。
18.猪形を腰に付ける狩人
19.猪
20.犬

「№18.猪形を腰に付ける狩人」をアップで。
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説明書きでは「椅子に座った人々のグループ、立ち姿の人々のグループ、狩りをする人と動物、整列する人や動物のグループなどいくつもの場面が見られ、さまざまな儀礼の様子を表したものだと考えられている」と簡単に書かれているが、個々に、或いは、グループ毎にみていくと、この人物・動物埴輪群には相当に意味深いことが含まれているのでなないかと思わせるものがある。

八幡塚古墳は、古墳時代の人たちの宗教観や心の内が如何なるものであったかを更にベンキョー、ケンキューさせるに十分なものがあると感じさせた。

八幡塚古墳に、大満足!

八幡塚古墳から、次は二子山古墳へ向かう。

フォト:2016年11月26日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-27 23:33 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 27日

『上野国史跡めぐり/保渡田古墳群/八幡塚古墳(Ⅱ)』 kk-2

11月26日、上野国史跡めぐり第二弾/保渡田古墳群探訪。
二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三つの前方後円墳が集積する古墳群。
先ず、葺石と埴輪は施し、復元された八幡塚古墳をめぐった。

前話では、八幡塚古墳の姿を20枚の写真と共に綴った。
ここでは、「八幡塚古墳とは」について、説明板に従って綴っておきたい。

「史跡 保渡田古墳群 八幡塚古墳」。
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説明書き/左。
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史跡 保渡田古墳群 八幡塚古墳
国指定史跡 保渡田古墳群とは
榛名山東南の麓、群馬県群馬町保渡田・井出にある3つの前方後円墳の総称。
いずれも墳丘の長さ100m級の大型古墳である。
5世紀後半に、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで造られ、この地に有力な豪族がいたことを示している。

八幡塚古墳の復元整備
かつて、この古墳は大きく削られていた。
そのため、史跡公園の全体計画にあたり、この古墳に限って、造られた時の姿に復元し、活用することが決定された。
5ヵ年にわたる発掘調査結果を基に、古墳の保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に復元整備した。
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説明書き/中央。
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今から1500年前につくられた八幡塚古墳
八幡塚古墳は、南東1kmにある三つ塚Ⅰ遺跡(巨大な館)に住み、榛名山東南麓・井野川流域を治めた豪族の墓である。
当時、群馬県地域(上毛野、かみつけの)は国内でも有力な地域であった。
八幡塚古墳の被葬者は、古墳の充実度からみて、この頃、上毛野各地に勢力を持った豪族達のなかでも代表的な人物であったと考えられる。

■規模・構造
墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られている。
周囲には、内堀・外堀・外周溝が巡り、それらの間には内堤・外堤が設けられる。
墓域の長さは約190mに及ぶ。
内堀の中には4つの島(中島)があり、この古墳の特徴となっている。

■埴輪の充実
この古墳には、たくさんの埴輪が並べられていた。
外界との垣根である円筒埴輪は、幾重にも列をなして並べられ、その数6000本と推定される。
内堤上の2ヵ所には人物・動物埴輪を置く区画(A区画・B区画)があり、各々50体以上が並んでいたと考えられる。
これは、一つの古墳では最多級で、かつ、配列状態もわかる重要な資料である。

■埋葬施設
遺体を納めた施設は、後円頂部に2ヵ所存在した。
後円部の中心に船形石棺が据えられた。
古墳を築いた豪族本人の棺であろう。
その脇には竪穴式石槨(せっかく、木棺を石で囲んだもの)も発見された。
近親者の埋葬施設であろう。

●この古墳に関する情報・遺物は南側の「かみつけの里博物館」に展示されている。
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二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の配置。
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整備が進んだ八幡塚古墳(平成11年3月)。
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八幡塚古墳図解。
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全長 190m
全幅 148m
墳丘長 96m
墳丘、舟形石棺
中島、内堀、内堤、外堀、外堤、外周溝
A区形象埴輪配列区
B区形象埴輪配列区
凡例 ・ ・ ・ ・ ・ 円筒埴輪列
    ・・・・・●・・・・・円筒埴輪列
       ▲    盾持人埴輪

「中島」。
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中島
この古墳の内堀の中には4ヵ所の中島が造られた。
内堀を掘った時に島の部分だけを残し、若干の盛り土をして2段に整えられた。
回りには円筒埴輪が巡らされ、碗などの土器が多量に出土した。
中島の性格は、
①古墳における祭祀の場
②近親者や従者の埋葬施設(陪塚)
などが考えられるが、いまだ明らかになっていない。
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後円部舟形石棺に関する説明書き(抜粋)。
配置図。
第1埋葬部 舟形石棺/第2埋葬部 竪穴式石槨(明治時代に発掘・破壊)。
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「石はどこから運んだか」。
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石棺の原材料は輝石デイサイト室軽石凝灰岩という柔らかい石である。
この層は高崎市西部の丘陵を中心に広がっている。
この層から切り出し、粗加工された石棺は最低でも7km以上の道のりを運ばれたきた。
そして、古墳の近くで最終仕上げを行って、ここに置かれたのである。
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「何人が埋葬されたのか」。
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何人が埋葬されたのか
この石棺は盗掘されていたため、棺内の埋葬人数は分からない。
石棺のうしろ(南側)にはこれよりあとに作られたもう一つの埋葬施設(木棺を石で囲った竪穴式の石槨)があった。
したがって、この古墳には二人以上が埋葬されていたわけだが、石棺が中心人物のもので、石槨はその近親者を葬ったものだろう。
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「何が出土したか」。
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何が出土したか
石棺は蓋が割られ、完全に盗掘されたいたが、小さな玉だけが取り残されていたが。
棺の右脇の石組み空間からは鉄製の農耕具のミニチュアが出土した。
貴重な鉄を独占した王の祭祀用具である。
第2埋葬部の跡からは、太刀、玉、甲(よろい)の破片等が出土している。

第1埋葬部 舟形石棺
石棺周囲 ガラス小玉、ガラス勾玉、碧玉管玉
石組空間 鉄製農耕具模造品(鎌、斧、鋤先)(鉇、鋸、鉸具、刀子)

第2埋葬部 竪穴式石槨
桂甲小札、碧玉管玉、大刀、鉄鏃
出土伝承品 馬具(鉄地金銅張剣菱形杏葉)(鉄地金銅張 f 字形鏡板)

=筆者注=
※鉇(やりがんな)
 木材の表面を削り仕上げる工具で、断面が浅い三角状の槍の穂先に似た刃を木柄につけたもの。
※鉸具(かこ)
①革帯などの留め金具。
  革緒の端を通す鉸具頭(かこがしら)という鐶(かん)と、革緒の穴に通す刺鉄(さすが)とからなる。
  帯・甲冑などに用いる。
②馬具の部分の名。
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舟形石棺の分布。
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九州北部、出雲、瀬戸内(吉備、讃岐)、ヤマト、丹後、上毛野の基数が図示されている。
阿蘇石製の舟形石棺は白丸印、その他の石で作られた舟形石棺は黒丸印で示されている。
九州北部は阿蘇石製が圧倒的に多い。
ヤマトも阿蘇石製が多い。
瀬戸内(吉備、讃岐)はその他の石製が多い。
出雲、丹後、越前、上毛野は全て、その他の石製である。

墳丘と葺石。
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墳丘は、堀を掘った土と近くから集めた土を盛り上げ、たたき締めて築かれた。
斜面には、榛名山東南麓の川から採取した石により「葺石」が施される。
上段・中段の葺石は、やや石の密度が高い状態で施工され、下段の葺石は間隔をあけて省略していた。
葺石のなかにみえる縦の石列は、一人ないし一斑の作業単位(工区)だと考えられる。
各段の平坦面のうち、中断平坦面には玉石が敷かれていた。
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葺石工事の様子。
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墳丘頂上部から北側の眺望図。
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左から/榛名山、二ツ岳(古墳時代に噴火した)、小野子山、子持山、赤城山。
手前左下/薬師塚古墳。
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保渡田古墳群の、殊に、八幡塚古墳を訪ねてみようと思った動機は、大きく言って二つあった。
いずれも復元ではあるが、一つは葺石、もう一つは人物・動物埴輪群像である。
葺石の姿は十分に見学した。
次は、A区形象埴輪配列区の人物・動物埴輪群像である。
人物・埴輪群像ついては続編にて。

フォト:2016年11月26日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-27 23:32 | 上野国史跡めぐり | Comments(0)