上総守が行く!(二代目)

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2017年 04月 04日

『讃岐国史跡めぐり第二弾/装飾古墳』 kf-3

3月31日。
四国・善通寺市の有岡古墳群を訪ねた。
有岡古墳群は、野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳など、3世紀から6世紀にかけて築造された古墳からなる古墳群である。

有岡古墳群のうち、今回訪ねたのは王墓山古墳と宮が尾古墳の2ヶ所。
石室に線刻画が描かれた宮が尾古墳は、古墳めぐりをしている者にとって貴重な訪問であった。

というのは、これまでの「史跡めぐり」の中で、幾つかの古墳の石室も見て来たが、線刻画が施された古墳を訪れたのは今回が初めてであった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳をめぐりながら、九州の装飾古墳(こちらは彩色壁画)も訪ねてみたいなあと話をしていたことでもあり、今回、宮が尾古墳を訪ねたことは誠に有意義なことであった。

武衛さんから「日本の美術」/No.110 『古墳の絵画』」(至文堂刊)を借りて、彩色壁画を中心とした九州の装飾古墳をベンキョーした。
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この書籍の編者は、斎藤忠。
どんな人物かとウィキペディアその他を参照。
1908年 - 2013年、日本の考古学者。
1932年、東京帝国大学文学部国史学科卒、卒業論文は「本邦古代に於ける葬制の研究」。
1955年、「新羅文化の考古学的研究」により博士号を取得。
1965年、東京大学教授、1970年大正大学教授、1983年退任。
著書は数多あり、著作物は700編、単著の単行本は90冊超。
注目されるのは、日朝壁画古墳、半島の古代および高麗時代寺院の仏教美術、中国の寺院史研究、日中韓の文化交流に関する研究、そして、日本考古学。
小生はこの世界に如何なる著名な学者さんがいるかについては疎いが、斉藤忠博士は相当に著名な人物であるようだ。

武衛さんがこの「日本の美術」を買ったのは就職して間もない頃で、学生時代よりは金銭に自由度が増え、思い切って買ったとのこと。
この「日本の美術」のシリーズは、昭和41年創刊、平成23年9月の第545号をもって休刊となっている。
昭和50年に思い切って買ったということは、創刊号からのバックナンバーも含め、第110号/古墳の絵画までの全て買ったということであろう。
小生は武衛さんのことを史跡めぐりの相棒などと簡単に呼んでいるが、小生など彼の足元にも及ばないほどの筋金入りということである。

「日本の美術」/No.110 『古墳の絵画』」でベンキョーしたのち、更に、図書館へ。
大塚初重著『装飾古墳の世界をさぐる』(祥伝社)なるものがあり、これを借りて、ベンキョー。
「日本の美術」/No.110 『古墳の絵画』」では彩色壁画に気を取られ、線刻画については頭に残っていなかったが、『装飾古墳の世界をさぐる』では線刻画についても知識を得た。

この『装飾古墳の世界をさぐる』の中に、宮が尾古墳の線刻画について、僅かながら触れられていた。
大塚初重著『装飾古墳の世界をさぐる』(祥伝社)。
書棚は図書館ではなく、筆者の雑書棚。
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72ページに掲載の「香川県宮ヶ尾の横穴式石室の壁画」。
現地の説明板に掲示されていたパネル写真の線刻画は一人だけであったが、この書籍には三人が並んで描かれたものが掲載されている。
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現地パネルの写真の「一人」像も、今一度、ここにアップしておこう。
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現地パネルの写真「一人」像は、三人の真ん中に描かれている人物に見える。
しかし、仔細に見比べてみると、これらふたつの間には幾つの違いが見て取れる。
最も違っている箇所は、左右の足の甲の描き方である。
・書籍の真ん中の人物の右足の甲には<細長い丸状のもの>が、左足の甲には<三本指>が描かれている。
・現地パネル写真の人物の足の甲は左右とも<三本指>が描かれている。
宮が尾古墳には、「一人」像もあれば、「三人」像もあるのだろうか。
それとも、「三人像」だけしかないが、模写する人の見方で、若干、模写の仕方が違っているのかもしれない。

この線刻画に関わる書籍の中での数行の記述は次の通り。
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四国の香川県善通寺市にある宮ヶ尾の横穴式石室の中に描き付けられた絵は、よく抽象化されたというか、人物の目玉も口も頭の表現なんかも、三像とも同じような傾向です。
右の二人は胡服のような、ズボンのようなものを穿いていますが、左の人は女性かも分からないけれど、これはどうでしょう。
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この書物では、ほんの数行の記述ではあるが、新しい情報を得た。
現地の説明書きで随分とベンキョーしたと思っていたが、やはり、物事はマルチでベンキョーせねばならないということである。
そして、「一人」像と「三人」像の足の甲の描き方の<謎>は<謎>のまま残っているのであった。

この機会に、香川県の東讃・中讃・西讃の古墳を調べてみた。
かなりの数があり、全てを訪ねることは不可能ながら、次の三ヶ所は、次回、機会があれば、是非、訪ねてみたい。
・富田茶臼山古墳(東さぬき市)・・・5世紀中頃、四国最大の前方後円墳。
・岩清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市峰山町ほか、山塊部)・・・3世紀前半、盛土・葺石ではなく、積石塚の古墳。
・有岡古墳群野田院古墳・・・3世紀後半、大麻山中腹、前方部/盛土・後円部/積石(復元あり)。

「讃岐史跡めぐり」の第一弾、第二弾は終わったが、まだまだ訪ねたいところは多々ある。
讃岐は遠方ながら、機会があれば、第三弾、第四弾と続けていきたい。

(完)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-04-04 23:53 | 讃岐国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 04月 04日

『讃岐国史跡めぐり第二弾/宮が尾古墳』 kf-2

3月31日、雨。
讃岐国史跡めぐり第二弾。
義兄、讃岐守さんの四輪で。
小生希望の有岡古墳群/王墓山古墳を訪ねたあと、讃岐守さん発案の宮が尾古墳へ。
宮が尾古墳は王墓山古墳から県道24号線を南西へ、約1kmのところに位置している。

有岡古墳群/宮が尾古墳。
入り口の説明板に目を通す。
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左側の「有岡古墳群」については、先ほど、王墓山古墳の入り口で見た説明板の内容と全く同じで、重複するが、書き下しておく。
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国指定史跡 有岡古墳群
善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されています。
中でも筆ノ山(ふでのやま)・我拝師山(がはいしやま)で北部を、大麻山(おおさやま)で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には、いたる所に後期古墳が群集していることが知られています。
中でも野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳は、4世紀から6世紀にかけて築造された県下を代表する古墳で、昭和59年11月29日に史跡に指定されました。
この6基の古墳は当地域における歴代の首長墓であり、讃岐の古代史解明に重要であるばかりでなく、中央や先進地域との緊密な交流を示す貴重な遺跡です。
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宮が尾古墳(6世紀後半)
宮が尾古墳は大麻山東麓部に6世紀後半に築かれた、横穴式石室を主体とする後期古墳です。
石室の規模は全長9m 玄室長4.5m、幅2m、高さ2m 羨道長4.5m、幅1.2m、高さ1.7mで、盗掘のため副葬品は失われていましたが、昭和41年の発掘調査で、中四国地方では極めて珍しい線刻壁画で装飾された古墳であることが確認されました。
壁画の内容は人物・船・騎馬人物など様々ですが、人物群が描かれている部分は、謎の多い古代葬送儀礼であり殯(もがり)の様子を表現したものではないかと考えられています。
県内では坂出市の鷺の口古墳や善通寺市内の岡古墳群などでも線刻画が確認されていますが、宮の尾古墳の線刻画は、他のいずれのものよりも内容が充実しており、古墳時代の葬送儀礼の一端がうかがえるだけでなく、当時の風俗を直接私達に伝えてくれる貴重な資料なのです。
※古墳内は壁画保護のため施錠されています。見学には教育委員会の許可が必要です。
平成4年 善通寺市 
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史跡有岡古墳群 宮が尾古墳遺構および施設配置図。
円墳が2基ある。
中央の1基は「宮が尾古墳」(1号は付されていない)、下(西側)の1基は「宮が尾2号墳」となっている。
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史跡説明板。
随分、枚数が多い。
左から順に目を通す。
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=資料編=
古墳時代。
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古墳時代
善通寺市は瀬戸内海の南岸にあり、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、独自の文化を育んできました。
少なくとも旧石器時代の終わり頃(2~3万年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃(3世紀末)になると集落はさらに発展し、政治的に人々をまとめる豪族が登場します。人々は豪族が亡くなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて各地の村々は大和の大王家を中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。
大きな墓は仏教が伝わり、火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。
この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の盛り土や石室を調べると、驚くほどすぐれた土木技術があったことがわかります。
また、死者に供えられた副葬品からは当時の生活状況や工芸技術がわかります。

紀元前200~300万年/旧石器時代 人類の誕生、石器の使用
紀元前1万年/縄文時代 土器の使用
紀元前300年/弥生時代 稲作の始まり
3世紀末頃/古墳時代 統一国家の始まり
7世紀初頭/奈良時代 法治国家の始まり
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有岡古墳群。
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有岡古墳群
善通寺市内には400基以上の古墳あります。
昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では、石屋形をもった横穴式石室から、豪華な副葬品がたくさん出土しました。
この発見によって王墓山古墳と周囲の代表的な5基の古墳が、有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることになりました。
6基の古墳は、この地域を治めた豪族の墓と考えられ、香川県(讃岐)の古代史を知る上で重要であるばかりでなく、とくに王墓山古墳の豪華な副葬品は、大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料なのです。

前期 4世紀代/野田院古墳、鶴が峰4号墳/竪穴式石室
中期 5世紀代/磨臼山(すりうすやま)古墳、丸山古墳/同上
後期 6世紀代/王墓山古墳/横穴式石室
終末期 7世紀初頭/宮が尾古墳、宮が尾2号墳/同上
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装飾古墳。
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装飾古墳
古墳には「装飾古墳」といって、石室の壁面が絵画や記号で飾られた珍しいものがあります。
装飾古墳は九州地方に多く知られていて、顔料で色をつけた同心円や三角形などの抽象図形のほかに、盾や靱(ゆき、矢を入れるための筒)、船のような器物、人物や馬、鳥などの動物が描かれたものがあります。
また、細い線だけで表現した線刻画も知られています。
いずれも魔除けや鎮魂(死者の魂を慰めること)が目的と考えられていますが、文字による記録がない時代の絵画は、古墳に立てられた形象埴輪などと共に、当時の人々の生活の様子や考え方を知る貴重な資料です。
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宮が尾古墳の線刻画。
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宮が尾古墳の線刻画
宮が尾古墳の横穴式石室内部には線刻の壁画が残っています。
墓室突きあたりの巨石には、人物群・大勢の人が乗った船・馬に乗った人物・船団などが、まるで物語絵巻のように描かれています。
西側の壁には刀を持った人物の姿も見えます。
とくに重要なのは、奥壁の上部に描かれた小さな家を取り囲む5人の人物です。
当時の葬式の様子を描いた珍しい壁画として注目されています。
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墓室奥室の壁画群。
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上から、「古代の葬儀の様子」、「船に乗った人物」、「騎馬人物」、「船団」、「人物」。

墓室奥室西壁の武人壁画。
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宮が尾古墳と2号墳。
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宮が尾古墳と2号墳
宮が尾古墳は入り口が崩れて埋まっていました。
また、羨道部も一部壊れかけていたので、一度、石を外して修理したとき、古墳の盛り土の中から絵が描かれた石が2つ見つかりました。
古墳づくりの最中に壊れて捨てた石の一部で、絵は石室の奥壁のものと同じ小さな家、そして靱(ゆき)、矢などの道具でした。
2号墳の石室でも絵画のある石が見つかりましたが、それは、宮が尾古墳の盛り土の中から見つかった壊れた石の一部でした。
壊れた石の破片が両方の古墳に使われていたのです。
このことから両方の古墳が同時に造られたことがわかりました。
古墳時代の終わりの頃になると、豪族以外にも力をもった人たちが増えて来ます。
この人たちも古墳を造るようになり、たくさんの古墳が山裾などに並べて造られました。
これを群集墳と呼んでいます。
普通、人が亡くなってから墓を造りますが、群集墳の場合は埋葬する人がいなくても、同時に何基もの古墳を造ることがあったようです。
宮が尾古墳の盛り土の中に2号墳の石室内からみつかった絵の描かれた石は、古墳を計画的に配置したことを初めて証明した貴重な資料です。
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大きな石材片/宮が尾古墳墳丘から出土した石材、左下の小さな石材片/2号墳の石室に使われていた石材。
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描かれている線刻画は、左から;
・縒縄紋(さじょうもん)
・矢(上部/横向き)
・矢(下部/横向き)
・殯屋(もがりや)
・縒縄紋(さじょうもん)
・靱(ゆき)

保存整備事業。
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保存整備事業
宮が尾古墳は長い間地中に埋まっていましたが、昭和41年、山林であったこの場所を開墾している時に偶然発見されました。
横穴式石室は地下に残されていたので、ときどき雨水が溜まっていました。
そこで貴重な壁画を守るため、保存整備工事を実施することにしました。
平成4年度に地下に埋もれた墳丘の様子を調べ、平成5年度には土地を公有化しました。
そして、平成6年度に墳丘全体を発掘しましたが、そのとき、宮が尾古墳の横に並んでもう1基の古墳(宮が尾2号墳)があることがわかりました。
宮が尾古墳と2号墳の保存整備工事は平成7年度から平成8年度にかけて実施し、整備の際の発掘調査では数多くの副葬品が見つかり、いずれも7世紀の初め頃に造られたことがわかりました。
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=実物編=
宮が尾古墳。
左に見える古墳は2号墳、背後に見える山は大麻山(多分)。
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横穴式石室入り口。
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2号墳。
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宮が尾古墳横穴式石室原寸大復元模型(「壁画部分を中心に忠実に復元した模型です」の注釈付)き。
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奥に見えるのは「墓室奥壁の壁画群」。
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アップで。
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アップしても線刻画は不鮮明なので、「古代の葬儀の様子」と「船に乗る人物」の部分を拡大トリミングしてみた。
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前掲の説明板「宮が尾古墳の線刻画/墓室奥壁の壁画群」と見比べてみると復元線刻画も上手く読み取れる。

道路側駐車場から、今一度、宮が尾古墳を眺める。
手前(西側)/宮が尾2号墳、奥(東側)/宮が尾古墳。
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これまでの「史跡めぐり」の中で、幾つかの古墳の石室も見て来たが、線刻画が施された古墳を訪れたのは今回が初めてであった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳をめぐりながら、九州の装飾古墳(こちらは彩色壁画)も訪ねてみたいなあと話をしていたことでもあり、今回の宮が尾古墳を訪ねたことは誠に有意義であった。
王墓山古墳に加え、宮が尾古墳にも行ってみようと発案してくれた義兄、讃岐守さんに感謝!する次第である。

なお、前掲の、宮が尾古墳「墓室奥室西壁の武人壁画」の線刻画について気付いたことあり、それについては第3話で述べてみたい。

フォト:2017年3月31日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-04-04 23:52 | 讃岐国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 04月 04日

『讃岐国史跡めぐり第二弾/王墓山古墳』 kf-1

3月31日、雨。
1年ぶりの、讃岐国史跡めぐり。
前回は、一昨年の秋に思い立った「国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐり」のテーマに従い、讃岐国のそれらをめぐった(総社は未達)。
今回の讃岐国史跡めぐり第二弾は、趣向を変え、古墳をめぐった。

一昨年の秋、武蔵国分寺跡、国分尼寺跡を訪ねて以来、国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社を訪ねることをテーマに定め、活動を開始。
武蔵国を皮切りに、常陸国、そして、昨年4月に讃岐国をこなし、その後、下総、上総、安房、上野、下野、相模、伊豆(順不同)など、関東諸国の国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社を訪ね終えた。
そうこうしている中で、国分寺以前の古代寺院も訪ねるようになり、更に古墳も訪ねるようになった。
各地の古墳を調べている中で、讃岐にある王墓山古墳なるものに目を惹かれた。
次回、kazusayome の実家を訪ねた際には、この王墓山古墳を訪ねてみようと思った。

今回、昨年の春以来、1年振りにkazusayome の実家へ赴くこととなり、義兄、讃岐守さんに王墓山古墳へ行きたい旨伝えたところ、王墓山古墳に加え、宮が尾古墳にも行こうということとなった。

生憎の雨であったが、昨年の春の国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡めぐりのときは「晴れのち曇り」であったので、天気の流れとしては「晴れのち曇り」、そして「のち雨」でもおかしくはないと思うのであった。

王墓山古墳と宮が尾古墳は善通寺市に所在。
讃岐守さんの運転で善通寺市を目指す。
県道24号線沿いを走る。

バス停/王墓山古墳前。
市民バスの愛称は「空海号」。
善通寺市は弘法大師生誕の地、よき命名である。
前方に古墳が見える。
雨の中の古墳、趣きがある。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 有岡古墳群
善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されています。
中でも筆ノ山(ふでのやま)・我拝師山(がはいしやま)で北部を、大麻山(おおさやま)で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には、いたる所に後期古墳が群集していることが知られています。
中でも野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳は、4世紀から6世紀にかけて築造された県下を代表する古墳で、昭和59年11月29日に史跡に指定されました。
この6基の古墳は当地域における歴代の首長墓であり、讃岐の古代史解明に重要であるばかりでなく、中央や先進地域との緊密な交流を示す貴重な遺跡です。
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王墓山古墳(6世紀)
王墓山古墳は有岡地区中心の小丘陵上に築かれた前方後円墳で、早くから注目されており、大正時代には貴重な史跡として報告されています。
この古墳は昭和57年に発掘調査され、石屋形を持つ横穴式石室の内部から豪華な副葬品が多数発見されましたが、中でも金銅製冠帽や銀象嵌された刀剣・金銅製馬具などは、古墳時代の工芸技術の高さを知るばかりでなく、大和政権の勢力伝播、つまり中央と地方豪族の関係や当時の社会情勢を知る上で極めて貴重な資料なのです。
横穴式石室はその上部が後円部の一部と共に失われていましたが、昭和61年度から平成3年度までの6年間にわたる整備事業によって、築造当時の状態に復元されました。
また、整備事業の際に、この丘陵上に築かれた弥生時代の集団墓も確認されましたが、古代の墓制を研究する上で重要視されており、古墳と共に整備されています。
平成4年 善通寺市 
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史跡 王墓山古墳
王墓山古墳では昭和57年度に発掘調査が行われ、古墳時代後期(6世紀後半)に造られた前方後円墳であることが明らかになりました。
規模
全長      46m
後円部直径 28m
後円部高さ 6m(推定)
前方部幅  28m
前方部高さ 5m(推定)
埋葬施設は横穴式石室で、玄室内には遺体を納める石屋形が造られていましたが、石屋形は九州に多く見られるもので、四国では初めての発見でした。
発掘調査によって出土した副葬品は金銅製冠帽・首飾り・耳環などの装飾品、馬具類、須恵器・土師器等の土器類など質量ともに素晴らしいものです。
特に金銅製冠帽は全国でも数少ない貴重品で、大和政権から権力の象徴として贈られたものと考えられます。
横穴式石室を埋葬施設とする前方後円墳は現在県下唯一であり、当時の有力豪族がこの付近にいtことを示しています。
また、石屋形や豊富な副葬品から、この豪族は活発に各地と交流していたことが分かります。
1992年3月31日 文化庁 香川県教育委員会 善通寺市教育委員会
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王墓山古墳紛糾実測図。
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後円部の墳頂に立ち、前方部を眺める。
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前方部下段にも目を遣る、そして、借景にも似た山(多分、我拝師山)を眺める。
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前方部の墳頂に立ち、後円部を眺める。
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再び、後円部の墳頂に立ち、後円部の丸い縁とその東脇にある溜め池を眺める。
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古墳を囲む周濠跡は消滅しているよが、雨の少ない瀬戸内海気候のこの地方に欠かせない、この溜め池は周濠の名残かもしれない。

溜池の向こうに広がる住宅地、更にその向こうの善通寺市の市街地を眺める。
市街地の中に、かすかに塔が見える。
この塔は、高野山、東寺と共に弘法大師三大霊場のひとつにして、四国八十八箇所第75番札所、善通寺の五重塔である。
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史跡めぐりは晴れであるに越したことはないが、雨の古墳も趣きがある。

王墓山古墳をあとにして、義兄、讃岐守さん発案の、宮が尾古墳へと向かう。

フォト:2017年3月31日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-04-04 23:31 | 讃岐国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 04月 03日

『讃岐国史跡めぐり/国分尼寺跡』 sk-4

2016年4月2日(土曜)、晴れのち曇り。
讃岐国史跡めぐり。
義兄、讃岐守さん運転の四輪で。
国府跡(坂出市府中町)とその近くの古代寺院である開法寺の塔跡を見学。
更に、国府跡の東、約2kmの、国分寺跡(高松市国分町)と隣接する国分寺跡資料館を見学。
続いて、国分寺跡の北東、約2kmの、国分尼寺跡(高松市国分町)へ。

讃岐国分尼寺跡。
後継寺院は、浄土真宗興正派、大慈山法華寺。
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史跡 讃岐国分尼寺跡
讃岐国分尼寺は、奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の勅願によって建立された「法華滅罪之寺」です。
創建当時には、水田10町が与えられ、10人の尼僧がおかれたことが知られています。
昭和3年に、現在の法華寺を中心に東西180~200メートル、南北180メートルの範囲が国の史跡に指定されました。
法華寺境内には、金堂跡と考えられる20個の大きな礎石があるほか、近年、その北側で、講堂跡、尼房跡と考えられる礎石建物跡が発掘調査で確認されました。
全国でも珍しく主要な建物が非常に良好に残っていることが明らかになってきました。
一方、寺域については、昭和53年に史跡指定地域南西部で実施された発掘調査によって、主軸が真北方向で幅2メートル、深さ0.9メートルの規模の溝が発見され、寺域を区画する西側の溝であったと推定されています。
このことから、当時の寺域は、1町半(約165メートル四方)の広さであったものと考えられます。
この他、国分尼寺で使用されていた井戸は「七泉」と呼ばれ、そのうちのひとつ「大泉」と伝えられる井戸が今も残っています。
平安時代の仁和2年(888年)には、讃岐の国司であった菅原道真もこの尼寺を訪れ、「法華寺白牡丹」の詩を詠んだことは有名な話です。
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伽藍配置および基壇造成範囲(想定)。
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左、央/講堂跡調査風景、右/尼房跡調査風景。
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山門。
国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」。
後継寺院の山門に「法華滅罪之寺」の扁額が掲げられているのは珍しい。
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扁額コレクション/「法華滅罪之寺」。
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境内に入る。
本堂には、当然のことながら、現在の寺院、法華寺の扁額が掲げられている。
扁額コレクション/「大慈山法華寺」。
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さほど広くはない境内には、国分尼寺跡を示す石碑、仏像、菅原道真の漢詩が刻まれた石碑、菅原道真の漢詩に因ん高浜虚子らの和歌が刻まれた石柱、そして、金堂跡の礎石などがところ狭しと点在している。
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讃岐国分尼寺跡
聖武天皇 天平十三年(七四一年)国分尼寺建立の勅を発せられし時、当国においても国分寺と共に創立せられる国分尼寺(法華滅罪之寺)の跡である。
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金堂跡礎石。
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菅原道真が讃岐国司の時代に詠んだ漢詩「法華白牡丹」。
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題法華寺白牡丹

色即為真白名猶
喚牡丹嫌随凢草
種好向法華看在
地軽雲縮非時小
雪寒繞藂作何念
清浄写心肝

仁和二年四月朔日
兼讃岐守従五位上
式部少輔文章博士
菅原道真朝臣
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牡丹の色は貞節を表わすような真白である。
しかし名はなお牡丹と呼んで丹(あか)という名がついている。
この牡丹は平凡な草花の仲間に属するのを嫌って、好んで仏法の花という名のついたこの法華寺で咲いている。
この牡丹は地上にあって、ちょうど白い軽雲が縮く(まっすぐ)になびいているように白く咲いており、また雪の降る時節でもないのに寒々と小雪が降ったよう白く咲いていている。
この牡丹は庭をめぐり、むらがって咲いていて、いったいどんなことを思っているのだろうか。
ただその白い清浄な姿は見る人の心まで洗いすすいで清めてくれるようである。
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寺の裏手に回って、講堂と尼房があったとされる田畑を眺める。
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発掘調査後、埋め戻されており、講堂跡や尼房跡の痕跡は見当たらず、門前の説明板にあった配置図を参考にその痕跡を想像するのであった。

以上を以て、讃岐国府跡、国分寺跡、国分尼寺跡をめぐり終えた。
テーマの「史跡めぐり」は、国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡に加え、もうひとつ、総社も含めている。
今回の「讃岐国史跡めぐり」では総社は訪ねなかったが、機会があれば、訪ねてみたい。
因みに、讃岐国の総社は「総社神社」、所在地は坂出市林田町3011。
坂出市東部の平地に位置し、讃岐国府からは北方約5.5kmの距離にある。
地図をみると林田町には総社の地名が残っている。
国府近くを流れる綾川は総社の西側を流れ、瀬戸内海に注ぎ込んでいる。
国司は綾川の水運を利用し、総社に赴いたのかもしれない。

今回の史跡めぐりで、四輪で案内してくれた義兄、讃岐守さんに感謝、感謝である。

フォト:2016年4月2日

(完)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-04-03 23:54 | 讃岐国史跡めぐり | Comments(0)
2017年 04月 03日

『讃岐国史跡めぐり/国分寺跡資料館』 sk-3

2016年4月2日(土曜)、晴れのち曇り。
讃岐国史跡めぐり。
義兄、讃岐守さん運転の四輪で。
先ず、国府跡(坂出市府中町)を見学。
国府跡近くの古代寺院、開法寺の塔跡を見学。
国府跡の東、約2kmに位置する、国分寺跡(高松市国分町)を見学。
国分寺跡に隣接する国分寺跡資料館へと向かう。

国分寺跡資料館。
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金堂(復原模型)。
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前面の扉は<自動開閉>。
中央の扉に続き、両脇の扉も開いた。
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堂内の設えも見事に再現。
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学芸員さんとの会話。
「この金堂の復原模型は自動開閉となっており、随分と凝った作りですね」。
「近隣の小学生が郷土の歴史の勉強で年に一度、国分寺跡と資料館を見学することになっています。単なる展示では子供たちは興味を示さないので、自動開閉などを施した模型を拵えました」。

国分寺跡出土の古代瓦。
古代瓦には大いに興味があり、じっくりと見学。
左から、奈良時代、平安時代前期、平安時代中期の軒丸瓦と軒平瓦。
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アップで。
奈良時代。
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平安時代前期。
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平安時代中期。
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軒丸瓦の文様を仔細に見てみる。
奈良時代・・・素弁八葉蓮華文
平安時代前期・・・複弁六葉蓮華文(単弁十二蓮華文?)
平安時代中期・・・複弁七葉蓮華文(単弁十四蓮華文?)
一部、あやふやな判別になってしまったが、さて?

創建時の瓦(復原)。
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復原創建期の瓦(奈良時代)
史跡地の築地塀の復原に使用されている瓦です。
左/軒丸瓦 単弁八葉蓮華文
右/軒平瓦 均整唐草文
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各地の軒瓦組合せ。
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左上・・・美作国分寺(中央模様様式)
右上・・・遠江国分寺(地方独自様式)
下段・・・讃岐国分寺の代表的軒丸瓦の組合せ(東大寺と宝幢寺から讃岐国分寺への矢印あり)

宝幢寺(ほうとうじ)とは?
調べてみた。
宝幢寺は白鳳期の古代寺院。
宝幢寺跡の所在地を調べてみた。
丸亀市内、郡家(ぐんげ)郵便局近くの宝幢寺池で塔心礎を含む礎石や瓦が出土したとのこと。
郡家という地名も興味深い。
宝幢寺跡の辺りには、郡衙(ぐんが)が存在したと推察できる。
丸亀市は、讃岐国11郡の那珂郡に位置しているので、その郡衙は那珂郡衙となる。

讃岐国分寺跡航空写真。
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国分寺と国分尼寺が建っていた頃の図。
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図の一番奥(北)に見えるのは瀬戸内海、その手前の山塊は五色台。
五色台には、五色の名の付いた紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰山があり、最高峰の標高483メートルの猪尻山ほか複数の頂に、標高407メートルの国分台などの平坦面が連なる。
国分寺跡はその国分台丘陵の南の平野に位置する。
先ほど訪ねた国府跡は、国分寺跡から西方(図、左)、約2kmのところに位置する。
これから訪ねる国分尼寺跡は、国分寺の北東、約2kmのところに位置する。
国府、国分寺、国分尼寺は絶妙の距離で置かれていたのだなと感じ入る。

国分尼寺跡関連パネル。
国分尼寺跡はこらから訪ねるので、展示パネルで事前ベンキョー。
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讃岐国分尼寺跡の造営
讃岐国分尼寺は僧寺の北東2kmのところに建立されました。
発掘調査はごく一部しか行われていませんが、周囲に塀がめぐり、1町半(約160m)四方の敷地をもつことが推定されます。
中心部には、金堂跡、講堂跡の礎石が一部露出して残っており、金堂は僧寺と同規模に復原できます。
出土瓦から、僧寺の主要堂塔が完成した後、国分尼寺の造営が始まったようです。
讃岐国分寺・国分尼寺の造営は、国府が主導的な果たしながらも、地元豪族の協力を得ながら進められたことが、瓦の文様から推定できます。
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学芸員さんと暫し会話。
「各地の国分寺跡をめぐりながら思うことは、国分寺造営の場所をどのように決めたのだろうかということです。今と違い、当時のことですから、空き地はいっぱいあり、何処でも造営は可能であったかと思うのですが」。
「聖武天皇の国分寺造営の詔の中に、国分寺造営の地は不浄であってはならないとあります。となると、全く人が住んでいないところとなりますが、造営には人を必要とするので、近隣に人が住んでいるところということになります。元々、寺院があったところに、国分寺を建てたという地方もあるようです。国分寺造営には、豪族の協力も必要となるので、豪族の<誘致活動>もあったのではないでしょうか」。
豪族の誘致活動説、なかなか面白い説と思った。

次の訪問地、讃岐国分尼寺へと向かった。

フォト:2016年4月2日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2017-04-03 23:53 | 讃岐国史跡めぐり | Comments(0)