2016年 11月 13日

『常陸国史跡めぐり/恋瀬川サイクリングロード 』hp-17

常陸国史跡めぐり、、第4弾。
常陸風土記の丘を大いに楽しんだ後、恋瀬川サイクリングロードを目指し、南へ走る。

恋瀬川サイクリングロード。
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前方からモーターパラグライダーが登場。
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右へ、左へと揺れながら、恋瀬川上流に向かって飛んで行った。
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恋瀬川の彼方の筑波山をズームアップ。
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恋瀬川サイクリングコース案内図。
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愛郷橋まで走ったところ、行き止まりで、橋の上へは上がれず、少し、上流へ引き返し、土手下の道へ向かう。
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愛郷橋を渡る。
橋の上から夕陽を眺める。
時刻、午後4時15分。
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愛郷橋上の、武衛さんと南国守さん。
向こうに見えるセブンは我らの御用達の店である。
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今日の jitensha @JR高浜駅。
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こうして、JR羽鳥駅~瓦塚窯跡~国分尼寺跡~鹿の子遺跡~常陸風土記の丘~恋瀬川CR~JR高浜駅、走行距離40kmの、常陸国史跡めぐり第4弾を終えたのであった。

フォト:2016年11月12日
フォト#1、#9:大給守殿提供

(完)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-13 23:47 | 常陸国史跡めぐり | Comments(1)
2016年 11月 13日

『常陸国史跡めぐり/常陸風土記の丘/野外展示場(3)鹿の子遺跡公園 』hp-16

常陸国史跡めぐり、第4弾。
常陸風土記の丘。
野外展示場。

鹿の子遺跡公園。
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「鹿の子遺跡復原(部分)にあたって」。
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鹿の子遺跡復原(部分)にあたって
この区域は、常磐自動車道建設に伴う発掘調査で発見された、鹿の子C遺跡の一部を復原しています。
鹿の子C遺跡は、漆紙文書や連房式竪穴遺構など、貴重な遺構や遺物が発見され、全国から注目されました。また、この遺跡は、出土品の内容から8世紀末から10世紀にかけて存在した集落と考えれています。
遺跡は、短期間の存在のために自然発生したものではなく、公的な計画に基づいて建設された集落とみなされています。
各遺構はⅠ~Ⅳ期にわたって重複していますが、Ⅳ期の遺構は土壙(どこう)のみでした。
遺構が建設された頃の大和朝廷は、東北経営に積極的でした。この遺跡は、所在地が常陸国府に近いことや、出土品の内容からみて、国営の軍需品の製造や修理の補給基地と考えられています。
遺構は、官衙・工房・竪穴住居等の建物跡群が、それらをとりまく溝で二つのブロックにわけられています。

官衙ブロックは、遺跡西南の平坦な部分に位置し、周囲に溝をめぐらし、東側の中央に門を設けています。
ブロック内の建物は掘立柱です。

工房・住居ブロックは、遺跡の東と来たの緩い斜面に混在しています。
べて竪穴形式で、工房の住居の差は認められませんでした。そのため、炉跡、カマド跡の有無で各々を区別しています。
復原建物の配置は、発掘調査遺構に基づいていますが、敷地の制約で、SB-28(高床倉庫)と1号工房は、位置を移動して復原しています。
遺跡の建設された年代やその後の経過は、出土品の年代や各遺構の建築時期から、大和朝廷の東北経営の過程とよく関連しています。官衙ブロックが整備されたのは、弘仁6年(815年)の軍政改革後と考えられています。
鹿の子C遺跡が形成されたのは8世紀後半と考えられています。これらの復原建物の基準尺度は8世紀前半の1尺(295mm)を用いています。その原因は、桁・梁など8世紀前半に建設された建物の部材を転用したものと考えられるからです。
これらの建物は、奈良国立文化財研究所、宮本長二郎建造物研究室長の指導のもとに復原されました。
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「鹿の子C遺跡関係年表」。
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年表に記されている事項は次の通りである。
・770年(宝亀元年)から900年(昌泰3年)の間の、鹿の子C遺跡Ⅰ期~Ⅳ期の推移。
・東北征伐史
 789年(延暦8年)  第1回東北征伐
 794年(延暦13年) 第2回東北征伐
 801年(延暦20年) 第3回東北征伐
 811年(弘仁2年)  第4回東北征伐
 815年(弘仁6年) 軍政改革
 878年(元慶2年) 元慶の乱

延暦13年(794年)、第2回東北征伐は、征夷大使、大伴弟麻呂、征夷副使、坂上田村麻呂であった。
延暦20年(801年)、第3回東北征伐は、征夷大将軍、坂上田村麻呂であった。
878年(元慶2年)に起きた天慶の乱(てんぎょうのらん)は、陸奥・出羽の蝦夷に属する俘囚の反乱であった。

「鹿の子C遺跡遺構配置図」。
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配置図に示された遺構略号は文字が小さ過ぎて識別できないが、参考として書き出しておく。
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遺構略号
SI・・・竪穴住居跡
SB・・・掘立柱建物跡
SX・・・工房跡
SK・・・土壙
SD・・・溝
SF・・・道路跡
SA・・・柵列状遺構

オレンジ色:復元遺構
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復元遺構配置図と各遺構に関する説明(順路案内を流用)、そして、復元建物。
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①2号連房式竪穴遺構・・・住居・工房併用
この建物の発掘調査では、遺構から炉跡1基、カマド跡4基、漆付着土器、瓦、砥石、小札(こざね)、釘などが床面全体に出土しています。
建物の用途は住居と工房を併用していたと考えられます。
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②5号連房式竪穴遺構・・・住居
この建物の屋根は入母屋造り茅葺で、採光と換気を図っています。
発掘調査では、遺構からカマド2基と、土器・鉄製品などが出土していますが、床面出土のものは少なく、用途としては連房式の竪穴住居と考えられます。

手前/2号連房式竪穴遺構、奥/5号連房式竪穴遺構。
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5号連房式竪穴遺構、出入り口。
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③SX-01・1号工房・・・鍛冶工房
この建物の屋根は切妻造り割板葺となっています。
遺構から炉跡が7基出土していることから用途としては鍛冶工房と考えられます。

④SI-145号・・・住居
この建物は竪穴住居で、屋根は母屋造り茅葺で、採光と換気を図っています。
用途は住居と考えられます。

左手前/SI-145号(住居)、右奥/SX-01・1号工房(鍛冶工房)。
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⑤SB-6・・・門(官衙ブロック入口)
この門は官衙ブロックの入口になる門で、掘立杭、控柱付瑞籬門(みずがきもん)の古い形と考えれられています。
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門をくぐったところから眺めた、2号連房式竪穴遺構、5号連房式竪穴遺構、SI-145号遺構の建物群。
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⑥SB-16・・・武具・鉄製品仕上げ工房
この建物は長屋と考えられ、二戸とも屋根は寄棟造り茅葺です。
壁は土塗壁、床は土間床です。
用途は、武具や鉄製品の仕上げ作業の工房と考えられます。
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⑦SB-20・・・作業棟
SB-16と同じく、屋根は寄棟造り茅葺で、壁は土塗壁、床は土間床です。
用途は、特殊な作業棟と考えられます。

⑧SB-11・・・官衙ブロック管理棟
この建物の屋根は、寄棟造り茅葺です。
壁は萱壁、床は土間です。
発掘調査では、遺構から土器・瓦片などが出土していますが、位置や規模からみて建物の用途は官衙ブロックの管理棟と考えられます。
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カラタチの生垣の脇に添えられた万葉歌。
鹿の子遺跡公園を設えた人の中には、こうしたものを添えておこうという遊び心も持った人がいたようだ。
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枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠(とほ)くまれ 櫛(くし)造る刀自(とじ)
忌部首(いむべのおびと)
巻十六-三八三二
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万葉集に疎い小生、この一首について解説を紐解いてみた。
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万葉集巻十六-三八三二
忌部首詠數種物謌一首 (名忘失也)
忌部首(いむべのおびと)の數種(くさぐさ)の物を詠める謌一首 (名は忘失せり)
枳 蕀原苅除曽氣 倉将立 屎遠麻礼 櫛造刀自
[訓読]
枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠(とほ)くまれ 櫛(くし)造る刀自(とじ)
[現代語訳]
枳の茨の原を刈り除いて倉を建てよう、尿は遠くでしてくれ、櫛を造る刀自よ
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⑨SB-10・・・倉庫
この建物の屋根は切妻造り割板葺です。
壁は竪羽目板壁、床は土間床になっています。
用途は、倉庫と考えられます。
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⑩SB-9・・・武具・鉄製品仕上げ作業場
この建物の発掘調査では、遺構の柱穴から土器片、瓦、刀子(とうす)片などが出土しています。
この建物は、武具や鉄製品の仕上げなどの作業に使用されてと考えられます。
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⑪SB-28・・・倉庫(官衙の貴重品を収納)
この建物は、独立した掘立柱が床を支えた高床式倉庫です。
屋椴は切妻造り厚板流れ葺で、厚板の接ぎ目に目板を打っています。
この建物の用途は、官衙の貴重品を収納していた倉庫と考えられます。
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⑫SB-5・・・仕上げ作業場
復元した建物の中では、この建物だけが棟持柱で棟木を支えています。
屋根は切妻造り割板葺で壁は板壁、床は土間床です。
建物の用途は、工房の製品の整理や仕上げなどの作業場と考えられます。

⑬SB-4・・・倉庫
この建物の屋根は切妻造り割板葺です。
壁はたて板壁、床は土間床になっています。
用途は倉庫と考えられます。

前述の万葉歌「からたち...」に続き、出口近くで、「ちさ(エゴノキ)」を詠み込んだ大伴家持の長歌に目を惹かれた。
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大汝(おほなむら)少彦名(すくながひこな)の
神代(かみよ)より......
世(よ)の人(ひと)の 立つる言立(ことだて)
ちさの花(はな)
咲(さ)ける盛(さか)りに
はしきよし......(長歌)
大伴家持
巻十八-四一〇六
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万葉集に疎い小生、この長歌について解説を紐解いてみた。
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於保奈牟知 須久奈比古奈野
神代欲里......
世人能 多都流許等太弖
知左能花
佐家流沙加利尓
波之吉余之......

[訓読(全文)]
大汝 少彦名の 神代より 言ひ継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児と 朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りぞ 離れ居て 嘆かす妹が いつしかも 使の来むと 待たすらむ 心寂しく 南風吹き 雪消溢りて 射水川 流る水沫の 寄る辺なみ 左夫流その子に 紐の緒の いつがり合ひて にほ鳥の ふたり並び居 奈呉の海の 奥を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ

[現代語訳(冒頭部分)]
大国主命と少彦名命が国土を造り成したもうた遠い神代の時から言い継いできたことは、父母は見ると尊いし、妻子を見ると可愛らしく、それが世の理(ことわり)とそのようにいうことを世の中の人は皆そう思い(略)えごの花の盛りの頃に、愛しい妻と朝に夕に嬉しさ、悲しさを分かち合い...(略)
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こうして、鹿の子遺跡について、常磐自動車道の側道に立てられた説明板だけではあるが、現場を訪問し、常陸風土記の丘の資料室で出土品を見学し、更に野外では復元された建物群を見学し、大満足であった。

「大変、お待たせしました」。
無料エリアの古民家の縁側で談笑しながら待っていてくれた南国守さんと大給守さんと合流。
写真データを見ると、展示室に入ったのは13時30分頃、展示室、野外展示場を見学し、有料エリアを出たのは15時15分頃で、彼是、1時間半、待って貰っていたこととなる。
感謝!

常陸風土記の丘から恋瀬川サイクリングロードを目指し、南へ走る。

フォト:2016年11月12日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-13 23:46 | 常陸国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 13日

『常陸国史跡めぐり/常陸風土記の丘/野外展示場(2)』縄文時代、弥生時代の復元住居』 hp-15

常陸国史跡めぐり、第4弾。
常陸風土記の丘。
野外展示場。

縄文時代、弥生時代の復元住居。
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手前/縄文時代住居、奥/弥生時代住居。
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「縄文時代住居(竪穴式住居)」。
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縄文時代住居(竪穴式住居)
竪穴式住居
地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。
なお、「竪穴住居」と表記することもある。
歴史
縄文時代に盛んに造られ、のちの弥生時代に伝わり、伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。
そして、日本の農家や民家のもととなっていった。
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縄文人の生活風景。
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「弥生時代住居」。
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弥生時代住居(竪穴式住居)
稲を育て収穫するという稲作農耕の技術が大陸から日本に伝わったのは約2300年前の弥生時代のことです。
米は、収穫後長い間蓄積できるため、縄文時代に比べ安定した食料の確保を可能にしました。
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弥生人の生活風景。
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フォト:2016年11月12日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-13 23:35 | 常陸国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 13日

『常陸国史跡めぐり/常陸風土記の丘/野外展示場(1)地蔵窪貝塚』 hp-14

常陸国史跡めぐり、第4弾。
常陸風土記の丘。

展示室で、館員さんの説明を受けながら、或いは、武衛さん、小生からの質問、更に、これまで各地を巡って来て得た情報をご披露するなどをしながら、数々の展示物を見学した。
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展示室に入ってから彼是1時間少々が過ぎた。
展示室で見学を続けているのは武衛さんと上総の二人。
大給守さんも一緒に入ったが、さっと見て、退室。
南国守さんは展示室入ることなく、外で待ち。
ということで、南国守さんと大給守さんを待たせるのは本意ではないが、折角の機会なので、ゆるりと見学させて貰うことに。

展示室から屋外展示場へ。

常陸風土記の丘に到着したとき、入り口で案内図を見た。
案内図には、屋外展示場では、縄文・弥生時代の復元住居と鹿の子遺跡を復元した「鹿の子遺跡公園」の二つとなっていたが、それ以外に貝塚の復元もあった。

これら三つを順に綴っていきたい。

地蔵窪貝塚。
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地蔵窪貝塚
石岡市三村地蔵窪1572番地の3外
地蔵窪貝塚は、食糧として採集した貝を食べたあと、不要となった貝殻を投棄した結果ができあがったものです。
地蔵窪貝塚を構成する主要な貝は、ハマグリとマガキで、他にオキシジミ、シオフキなど多くの種類の貝を食糧としていました。
また、エイやサメの歯、クロダイのあごの骨、キジ、イノシシ、タヌキ、シカなどが見つかっています。
さらに、生活用具としては、縄文土器、石皿、石斧、石鏃 などの石器や骨角器が発見されており、縄文時代早期の生活の一端を窺い知ることができます。

[この貝塚は、地蔵窪貝塚で発掘採集した貝殻で復原したものです]
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地蔵窪貝塚の所在地は「石岡市三村地蔵窪1572番地の3外」となっている。
地図を見ると、「三村」は石岡市の市街地から南西へ数キロのところにあり、内陸部に位置している。
今は内陸部であるが、何故、この辺りに貝塚があるかというと、縄文時代、この辺りは、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)や印旛沼、手賀沼などがつながった、大きい内海(香取海)の海辺となっていたからだ。
これは、以前、霞ヶ浦ポタリングの際にベンキョーしたことであった。

地蔵窪貝塚の詳細について調べてみようとネット検索してみた。、
この貝塚に関する具体的な記述は見つからなかったが、土浦市の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)」なるものにヒットした。
上高津貝塚は土浦市の市街地から西へ数キロのところにあり、内陸部に位置している。
この辺りも、上述の通り、縄文時代は海辺であった。

「上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)」のホームページに、「縄文時代の土浦/霞ヶ浦の今と昔/縄文海進期の日本および霞ヶ浦周辺の様子/霞ヶ浦は入り江でした」との記述がある。
縄文海進とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことで、海面が今より2~3m高かったと言われ、縄文時代前期(約6000年前)にピークを迎えたとされている。

各地の史跡めぐりは国府跡・国分寺跡・総社がメインで、古墳と国分寺以前の古代寺院もメインとなりつつあり、貝塚までは手が回らないが、機会があれば、貝塚も訪ねてみたい。

フォト:2016年11月12日

(つづく)
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-13 23:34 | 常陸国史跡めぐり | Comments(0)
2016年 11月 13日

『常陸国史跡めぐり/常陸風土記の丘/展示室(8)鹿の子遺跡』 hp-13

常陸国史跡めぐり、第4弾。
常陸風土記の丘/展示室。

鹿の子遺跡のコーナー。

先ほど、常磐自動車道の側道で「鹿の子遺跡」を訪ねた。
常磐自動車道の工事現場で遺跡が発見され、発掘調査が行われ、「鹿の子遺跡」と名付けれた。
既に埋め戻しされ、現場には説明板だけがある遺跡だが、ここ、常陸風土記の丘で出土品の展示と遺構の復元がなされている。

鹿の子遺跡。
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鹿の子遺跡
石岡市若松3丁目8982番地外
鹿の子遺跡から発掘された建物跡は、居住グループ・工房グループ(製鉄品や銅製品を作った作業場)・官衙グループ(役所的な機能をもつ所)のみっつのグループに分かれており、この遺跡は製鉄品を中心に製造していた常陸国の官営工房跡と考えられています。
発見された漆紙文書(漆をいれた容器のふた紙に使用された文書)は、奈良時代から平安初期(8世紀から9世紀)の役所や庶民の生活をしる上で貴重なものです。
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鹿の子遺跡-官営工房-
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鹿の子遺跡-官営工房-
鹿の子遺跡は、、鉄を中止にした大規模な官営工房跡と考えられており、特殊な構造を備えた建物跡が発見されています。
また、漆紙文書の量は、全国でも一番多く見つかっており、その内容も大変重要な資料になるものです。
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鹿の子遺跡全景。
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遺跡の左右の幅が常磐自動車道の左右の幅に相当するのであろうか。
この写真の箇所が、先ほど、訪ねた説明板が立っていた辺りとすれば、今や、左右の一帯は住宅街となっている。
そして、右手方向(東)、数百メートルのところに常陸国分尼寺跡が位置していることとなる。

鹿の子遺跡出土品。
墨書土器/その1。
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左、4点をアップで。
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右、4点をアップで。
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墨書土器/その2。
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左、4点をアップで。
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右、4点をアップで。
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硯。
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[帯金具。
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漆紙文書。
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漆紙文書(複製)
漆紙文書は、役所などから払い下げられた公文書が、漆液を入れた容器のふた紙(落しぶた)として使用されたため、漆が付着して現在に残ったものです。
文字は、肉眼では見えず、赤外線カメラで判読します。
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アップで。
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今年5月、「ふるさと歴史館」で、鹿の子遺跡の存在を知った。
鹿の子遺跡から出土した漆紙文書に興味を持った、殊に、出土した漆紙文書から当時の人口が推定されたということに。
ふるさと歴史館での鹿の子遺跡の展示について、マイ・ブログで縷々綴っており、参考資料としてここに転載しておきたい。

====2016年5月16日付けマイ・ブログより抜粋===
鹿の子C遺跡。
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鹿の子C遺跡~地下の正倉院~
鹿の子C遺跡は、8世紀末から100年間にわたって計画的に営まれた集落で、掘立柱建物郡などからなる官衙ブロックと居住・工房ブロックに分かれています。
後者では鍛冶作業を行った多くの鍛冶工房跡が整然と配置され、連房式堅穴遺構と呼ばれる長大な施設もありました。
工房跡からは、鉄鏃(てつぞく、鉄製の矢じり)や小札(こざね、甲冑の部品)などの多量の武器武具の他、日常的な鉄製品が出土しています。

また、工房跡からは、鉄とともに漆紙文書が多量に出土しています。
漆紙は、国衙から提供された紙を、鉄製品の接着剤として利用する漆が乾かないように容器に蓋をしたものが、腐食することなく出土したものです。
漆紙文書には、農民への稲の貸付を記録した出挙帳(すいこちょう)、田籍文書(土地台帳)、蝦夷征伐に向かう兵士の装備等が記されており、当時の様子を知る貴重な資料が多量に出土したことから、地下の正倉院と称されました。
特に、注目されるのは、漆紙文書の中に常陸国の良民数が記されたものが見つかりました。
これを基に奈良時代末の常陸国の人口を推定すると22万4千人、全国の人口が540万人から590万人と推定することができます。
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僅か十数行の説明書きであるが、中身が濃い。
即ち、
1)鍛冶工房について触れられている。
瓦塚窯跡から製鉄窯(炉)1基が発見されており、ここで作られた鉄がこの鍛冶工房で加工されたのであろう。
2)漆紙文書が出土したことについて触れられている。
国衙から提供された紙を製鉄品の接着剤用の漆の容器の蓋に使われいたものであるという。
3)この漆紙文書から、奈良時代の常陸国の人口は22万4千人から24万4千人、全国の人口は540万人から590万人と推定されたのである。

漆紙文書。
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漆紙文書[レプリカ]
田籍関係文書
鹿の子C遺跡出土

田籍関係文書は、田地の坪付けを記した検田帳です。
昭和54年~57年、常磐自動車道建設に伴い、発掘調査され、42号竪穴住居跡から文書表面を外側にした二つ折りの状態で出土しました。
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漆紙文書は各地で出土しているが、図書館で歴史書を紐解くと、鹿の子遺跡で出土した漆紙文書について大きくページを割いて記述されている。
これは鹿の子遺跡で出土した漆紙文書が学術的に如何に重要なものであるかを示すものである。

常陸風土記の丘/展示室では「この遺跡は製鉄品を中心に製造していた常陸国の官営工房跡と考えられています」とあり、ふるさと歴史館では「鍛冶工房跡からは多量の武器武具の他、日常的な鉄製品が出土している」とあるが、鉄製品の出土品の展示は見当たらなかった。
機会あれば、調べてみたい。

フォト#1~#13:2016年11月12日
フォト#14~#17:2016年5月6日(アーカイブより)

フォト:2016年11月12日
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# by kazusanokami-2nd | 2016-11-13 23:33 | 常陸国史跡めぐり | Comments(0)